痛々しさを感じさせてはいけない?
前出のシューシュポスが身体が大きく屈強な男性であればその悲劇的状況も少しは和らいで見えそうだが、もしもシューシュポスが華奢な女性であったり、まだ小さい子供であった場合は、その光景は実に痛々しく可哀相に思えてくるだろう。
また今回の研究でも、ペアになった2人が筋骨たくましい女性アスリートと小柄で華奢な男性であった場合、ひょっとすると女性のほうが辛くて危険なタスクを引き受けて男性もそれに同意するかもしれない。
したがって行動傾向の違いは性差だけでなく、見た目などのいつくかの要因もありそうだ。
『社会契約論』で知られる18世紀の社会哲学者、ジャン=ジャック・ルソー(1712-1778)は、人間に根本的に備わっている性質として、自分をリスクから守ろうとする「自己保存」と、他者の苦しみに対する「憐憫(れんびん)」の二つがあると説明している。
自分の身の安全が第一であることに変わりはないが、ルソーに言わせれば我々は他者の窮状に敏感に同情し、哀れみや痛々しさを感じていることになる。
往々にして女性の肉体労働が好ましく思えない感情的な根拠となるのが、場合によって痛々しく見えてしまうことにあるのかもしれない。したがって当人の問題というよりも、周囲がそれをさせないという〝空気〟もありそうだ。
厨房が見える飲食店はラーメン店などでも少なくないが、なかなかの重労働もありそうな調理風景でも働いている人がタオルを頭に巻いた逞しい男性で、声を出して張り切って調理していれば安心もするし、頼もしさも感じられてくる。
その頼もしさの裏には少しばかりの〝強がり〟もあるのかもしれないが、お客に安心感を抱かせることができればその後のリピート来店にも繋がるだろう。
しかし歳月を経れば寄る年波には勝てない。体力気力と認知機能の衰えによって図らずも痛々しく見えてしまったとしたら、それが現役引退の指標ということになるのだろうか。肉体労働は持続可能なレクリエーションとして楽しめる余裕と体力が残っていないことには当人も周囲も幸せにはなれないのだろう。
※研究論文:https://osf.io/preprints/psyarxiv/qbk87
文/仲田しんじ