【古墳王子の早口コラム】
こんにちは! 小学生の頃から古墳の魅力に目覚め、訪ねた古墳は2700基以上の高校生、古墳王子です。
このコラムでは皆さんにディープでマニアックな古墳の魅力が伝わるよう、僕が感じた感動や発見をオタク特有の早口でお伝えしていきます。
今回のテーマは古墳の形について。
個性いろいろ、古墳のカタチは何種類?
古墳って大まかにいうと、古墳時代に造られたお墓なわけですが、古墳時代として区分された期間はおよそ400年間ぐらいと考えられており、その400年の間に時期や地域によって実に様々な形の古墳が誕生しました。
皆さんがよくご存じの前方後円墳をはじめ、そのへんのこんもりしたヤツと表現されがちな円墳、他にも詳しく調査してみたら形が発覚しちゃう方墳や前方後方墳、古墳時代がほぼほぼ終わりに近い頃にセレブ界隈で爆誕した八角墳など、その種類は判明しているだけで実に14種類!
しかも『造出し』とよばれる方形の壇状施設の付け方を合わせるとその種類は無限の可能性を秘めているかもしれません。
宇宙椅子10th記念・にっぽんの古墳クッション展(奈良県立図書情報館)
そんな古墳たちの中で一番長い間、しかも一番数多く造られた古墳の形状はいったいどんな形だと思いますか?
それは、実は前方後円墳じゃない方。そう、あの、そのへんの丸いこんもりした……と表現されがちな「円墳」こそが、日本列島で一番多く見つかっていて、その数はなんと16万基全体の約9割を占めるといわれているのです!
では、なぜ円墳が一番多いのか?それは古墳時代の人のみぞ知るわけですが、ぼくが考える一番大きな理由としては、どんな人でも簡単に設計や築造がしやすかったからということではないでしょうか。
例えば大きめの長い棒が2本と長い紐を1本、そして人間が二人いれば広めの土地でコンパスみたいに大きな円を描くのは簡単だし、あとは円の周りの土を掘ってその円の中に土を盛っていけば簡易な円墳は完成でしょう。
もちろん石室の設計もあるからこんな簡単な話ではないのだけど、のちに豪族と呼ばれるほどの土地や財力を持たない層の人々にとって、大切な人を相応のスタイルで埋葬したい、ちょっと流行りでシンボリックな古墳を手頃な感じで造ってみたい、そんなニーズにマッチしたのが円墳だったのかもしれません。
他にも古墳時代がもっとも勢いづいていた頃、前方後円墳はヤマト王権が認めた人物のみ築造を許されたので、それに従属する位の人物は前方部が無い状態の円墳となったという説も有力です。
とにかく400年間という長きにわたり築造された円墳には、同じ形でもその時代に応じてセレブだったり将軍だったり、町長クラスな人たちによる様々な想いやアイデンティティがあり、「そのへんの丸いヤツ」と簡単に片付けてはならないような壮大な人生ならぬ、古墳ドラマがあるのかもしれません。
大室古墳群M-4号墳(群馬県前橋市)
日本最大の円墳が関東にあるってほんと!?
皆さんは埼玉古墳群(さきたまこふんぐん)をご存じだろうか?
埼玉古墳群とは5世紀から7世紀中頃に武蔵国とよばれていた大宮台地の一部に大型の古墳たちが密集して築かれた全国屈指の古墳群で、そのスケールの大きさから古墳のテーマパークとの呼び声高く、埼玉県の名前の由来もこの埼玉古墳群から名付けられているほどです。
そんな大小様々な埼玉古墳群の中で最も有名な丸墓山古墳の直径は105m。ラグビーのタッチライン(長辺)が100mなので全速力で走ると息が切れる長さですね。そのうえに盛り土をこんもり高さ18.9m。マンションでいうと6階建てぐらいの高さでしょうか。
ぜひ想像してみてください。まだ多くの人々が竪穴住居に住んでいた古墳時代、周りに古墳以外の高い建物がほとんどないところに6階建てマンション級の巨大古墳がそびえ立つ迫力! それは現代でいうとタワマン並の衝撃だと思うし、遙か遠くからもその姿が望めるランドマークとしての存在感はハンパないでしょう!
さらにその大きさが大いに役立ったのは戦国時代。豊臣秀吉が関東平定の際、当時この地域を支配していた成田氏の忍城を攻めるため豊臣軍率いる石田三成が陣を張ったのはこの丸墓山古墳の墳頂、いわゆる頂上だといわれています。
確かにお城を攻めようと思ったら周りを全て見渡せる高いところに陣を張りたいですよね。実際に息も絶え絶え頑張って丸墓山古墳に登ってみるとすぐ近くの忍城は丸見えで、さらに古墳周辺には『石田堤』とよばれる堤の跡もみられるようです。
そんなエピソードに事欠かない丸墓山古墳の現地の説明板には一行目に『日本最大』の記載があり、地域の自慢の古墳としてガイドさんたちも(おそらく自治体関係者の方も)自信を持って「日本一大きい円墳です!」と言っていたに違いない。そう、6年前までは……。
丸墓山古墳(埼玉県行田市)