あけましておめでとうございます。もう正月からずいぶん日が経ちましたが、こういう時候のあいさつは大事なんで、書かせていただきました。
それにしてもサウナもコロナ禍からどうにかこうにか脱却しましたね。本当に「不要不急の外出はお控えください」なんて小池百合子都知事がデッカイ布製のマスクして話していたのが、今となっては大昔の話に感じられますよ。
で、コロナ明けとなって、一番考えなきゃいけないのは、いわゆる『黙浴』についてである!
『黙浴』はスタンダードなのか?
コロナ以前からサウナ好きだった人間……オレも含めてだけど、そのタイプのサウナ好きにとって、『黙浴』っていうのは、「まぁ~しょうがないよね」って感じで受け止めてたの。
だってサウナ室内での会話って、当時は普通にしてたからね。もちろん回りの迷惑になるような大声張り上げての会話はマナー違反ですよ。テレビのあるサウナ室だったら、テレビの音も聞こえないしさ。ただ小さな声で隣の人と世間話するような会話はサウナに於ける普通の光景だった。
ここらは、昔っからサウナ好きだった人は「うんうん」って頷いてくれてると思う。
で、コロナとともに『黙浴』がやってまいりました。で、この『黙浴』がスタンダードになったたコロナ禍の期間にサウナ好きになった人ってすごい多いんですよね。まぁ『コロナサウナ世代』とでもいいましょうかね。
そういう方々って、どうやら『もともとサウナっていうのは黙浴がスタンダード』と思い込んでるフシがあるんですよ。
当然、今でも『サウナは黙浴』っていう営業方針の施設もあるでしょう。温浴施設でもっとも重要なのはハウスルールなので、そういう施設では『黙浴』を貫くべきですよ。
でも特にそんなことを謳ってない施設ならば、もはやちょっとした会話はしていいと思うんだけどなァ~。でもそれを許さない『コロナサウナ世代』が多い。それこそいまだに『黙浴警察』状態ですよ。
なんかもう宗教のように『黙浴こそがサウナの至高で理想の入り方』だと信じ込んでる。
で、そういう人が必ずいうのが『サウナは教会のように神聖な場所』っていうフィンランドの言葉ね。神聖な場所なんだから、静かにしてろ! っていう理論。
おそらくこの言葉を『サウナの本場のフィンランドでは、サウナは神聖な場所なので当然会話など厳禁』という意味でとらえてるんでしょうが、フィンランドの人ってサウナ室では日本人以上にオシャベリだからね。これは、フィンランドにサウナ入りに5回行ってるオレが言ってるんだから間違いない。
ちなみにフィンランドのサウナで『コロナサウナ世代』が「サウナ好きの必需品」と思い込んでいるサウナハットをかぶってる人は一人もいません。家のサウナで赤ちゃんとかはかぶるらしいですが、フィンランドの人は日本人観光客がサウナハットかぶってる姿を滑稽に見ているそうです。まぁ~フルチンでかぶってるってのも、連想的に赤ちゃんだしな。
↑これ、2013年の年賀状なんだけど、初めてフィンランドでサウナ入ったときの写真を使ったんですよ。ってこと2012年に初めてフィンランドでサウナ入ったんだなァ~。今では絶対にやらない足組んだポーズで入ってることに今反省してます。ちなみにこのサウナは、フィンランドサウナ協会が運営する、あの『サウナセウラ』。
で、フィンランド人のサウナ室でのオシャベリっぷりですが、まぁ~よく話がそこまでとぎれねぇ~なって感心するくらい、のべつまくなしくっちゃべってる。ようするに『神聖』ってそういう意味じゃねェ~ぞってことをいいたいんですよ。
そもそも神聖ってなに!?
じゃ『神聖』ってどういう意味なのか? ってそりゃ色々な解釈ができるだろうけど、とにかくサウナに入れることには感謝してるよね。
あのさ、これはコロナ以前からいることはいるんだけど、サウナを批評する人っているでしょ。まぁオレも昔は批評してましたよ。なんか「この施設はここがよくない」なんて気付くことで、自分がさもサウナに詳しいような気分になっていたワケ。他の施設と比較したりしてね。
でもさ、そういう批評目線でサウナに入ること事態が、あんまりサウナに感謝してないんだよね。気持ち的にも、そんな気持ちで入らない方がサウナの良さを感じられし。本当にサウナのいい所だけを享受し感謝する。それが神聖なものに対する本来の接し方じゃないの?
それこそが『サウナは神聖な場所』って言葉の神髄ではないんすかね?
なのに「神聖だから静かに!」って言ってる人に限って「あのサウナはアソコがよくない」だの文句批評好きな傾向がある。もう『神聖』の意味が矛盾しちゃってる。
話は『黙浴』に戻りますが、だから『黙浴』を謳ってない施設ならば、他人の会話に目くじら立てなくてもいいじゃない? そもそもフルチンで目くじら立てても、あんまり威厳ないぞ。
オレ自身はサウナって一人で行くのがほとんどだから、めったに会話することもないけど、回りの人が会話してても、別に何も気にならないけどな~。むしろ回りの人の会話を盗み聞きできるとうれしいよ、なんかネタになるんじゃないか? って。
でも、ど~してもサウナ室の会話が嫌いな『コロナサウナ世代』は『神聖』以外にこういう理論も持ち出してくる。
「集中できない」
だ!
オレはサウナでの精神状態といいますか気持ちの持ちようは、は『集中』というよりも『解放』したいほうなので、このサウナで「集中する」っていうのはよくわからないんですが、まぁなにかこう自分の世界に没頭するってことなんでしょう。ちょっと瞑想に近いスピリチュアルが入ってる人も多いかもしれないですが、そういう気持ちは尊重しないといけないとは思いますよ、本当に。
でも、修行積んだ人は、回りでどんだけ会話されようが、自分の世界に集中できるもんだけどね。
瞑想とはちょと違いますが、オレ、取材で禅寺に泊まり込みで修行させられたことが何回もあるけど、座禅組んでる時なんか、確かにちょっとした音でも集中って乱れるワケ。でもそん時思うのは「まだまだオレは未熟だな~」っていう自分への反省ですよ。
その音に対して「静かにしろ!」って文句いうのはお門違いじゃないのか? 集中したいならば、集中できる鋼の精神を身につけるべきではないか? 未熟ならば静かな『黙浴推進型』サウナだとか、個室サウナだとか行けばいいんじゃないのか?
コロナが明け始めて今、サウナの今後のことを考えると、もちろん『黙浴推進型』のサウナもズ~ッとあった方がいいだろうし、逆に『会話推進型』のそれこそ、江戸時代のベストセラー・式亭三馬の『浮世風呂』みたいな蒸風呂の中での会話を楽しむ世界を味わえるサウナがあってもいいんじゃない? 多様性なんだし。
カーツさとう
コラムニスト/プロドランカー。グルメ、旅、サブカル、サウナ、ネコ、釣りなど幅広いジャンルに精通……なんて毎号書いてありますが、ネコの本を作りました! 『図鑑NYAO ネコみっけ!』(小学館)。そして買って、淳子のお願い。