骨董の目利き 青山二郎の眼
かつて、日本を代表する文芸評論家である小林秀雄から「ぼくたちは秀才だが、あいつだけは天才だ」といわしめた、青山二郎という骨董の鑑識眼において卓越した人物がいました。
青山二郎は何万点もの中国陶器に触れるなかで、独自の美意識に開眼したといわれます。
天性のものはあったにせよ、その研ぎ澄まされた凄みの感性は、厳しく美を選択することの積み重ねで磨かれていったのかも知れません。
多様な作品を見続けることで、鑑賞者は異なる時代や文化に触れる機会を増やし、独自の美意識が形成されるのかもしれません。
もしも青山二郎の眼を通じて世界を見ることが出来たなら、そこにはどんな美が広がっているのでしょうか。また骨董の枠を超えて、他の芸術作品についてどのような感想を持ったのでしょうか。
少なくとも、青山二郎の眼は時代を超える普遍性を持っていたのです。
おわりに「あなたはアート(芸術)という言葉を忘れて、アートを眺めることができますか?」
今日でも美術館などでさまざまな作品にふれることが可能なのは、アートや芸術というものが、歴史を超えていく力を持っているからです。
その一方、たとえ芸術の歴史を学んだからといって、芸術の本質を捉えきれないのではないでしょうか。少なくとも、私には少なからず乖離があるように感じます。
ではいったい、何を学んだら芸術の見方を身につけることができるのでしょうか。
たとえば作品の量を浴びるなかで、他者の評価を超えて、自分で評価を引き受ける身体性のようなものを獲得することが必要かも知れません。
だからこそ、冒頭で述べた「アートが分からない」という面白さを感じられるのではないでしょうか。
また芸術だけでなく、科学的に人間の特徴を学ぶことも、芸術の核となる部分に迫るアプローチのひとつかもしれません。
今回のテーマである、
「あなたはアート(芸術)という言葉を忘れて、アートを眺めることができますか?」
とは、私からあなたへの美の問いかけであり、それは作品だけでなく、今日のアートマーケットの在り方や評価そのものに対する問いかけでもあるのです。
文/スズキリンタロウ(文筆家・ギャラリスト)