ピカソの子どものような絵
まるで子どものような絵、よくわからない絵のことを「ピカソのようだ」と形容することがあります。確かに子どもの絵には、人を惹きつけるような素朴な魅力があることを実感する方も多いのではないでしょうか。
しかし、多くの子どもは大人になるにつれて、「子どものような絵」を描くことはなくなります。
つまり、大人になって実感するのは、いつまでも子どもであり続けることは難しいということです。ところがピカソは生涯、子どものような絵を描き続けることが出来ました。
ではピカソと子どもでは、いったい何が違うのでしょうか?
ピカソの絵はすべてが計算され尽くされています。
もちろん子どものように自由に描きながら、常に冷静に美を緻密に計算しながら創り上げているのです。
いいかえれば、ピカソは子どものような絵を描くことはできますが、子どもはピカソのような絵を描くことはできない、ということです。
そこには、ピカソの持つ革命的な美の力があり、だからこそピカソ作品は芸術の歴史のなかで今日も生き続けていくのです。
フェルメールの牛乳を注ぐ女とデュシャンの泉
フェルメールの絵画「牛乳を注ぐ女」とデュシャンの「泉」(冒頭の写真作品)には垂直という共通項があります。
フェルメールが描いた女性が牛乳を注ぐ量はほんのわずかに過ぎません。
しかし、女性の意識は明らかに牛乳に向けられていることが分かります。この白い牛乳は絵画のなかで、ずっと注がれ続けており、落下は垂直な線で描かれるため、地球の重力を可視化させる役割を担っています。
重力がある、ということは、女性が立っていることが強調される効果があるのです。
これと同じような効果を持つ作品がデュシャンの「泉」です。
この作品は1917年に制作されトイレの便器に“R.Mutt”と署名した芸術作品です。
デュシャンは大量生産された既製品の作品をレディメイドと名付け、思考の起点となる作品を生み出し、現代アートの父とも呼ばれています。
この「泉」という作品も、トイレで用を足す、落下するという重力の流れ、垂直な力が働いています。こうした垂直の力によって、私たちは重力を感じており、垂直を意識すると世界はまた別の見方が出来るのではないでしょうか。
そして、数多ある既製品からトイレを選んだ審美眼も天才デュシャンの凄みといえるでしょう。
このように、フェルメールにもデュシャンにも新たな美の創造主としての力があったことを、私たちも作品を学ぶことで感じることができるはずです。