Jリーグ復帰後の浦和・清水でも挫折を味わう
2006年の浦和復帰後も守備重視のギド・ブッフバルト監督体制ではコンスタントな活躍が叶わなかった。その後、ドイツ・ボーフムへ行き、2010年に清水エルパルスへ移籍。2度目の国内復帰を果たすも、ここでも順風満帆とはいかなかった。長谷川健太監督(現名古屋)が率いていた当初は重用されたものの、アフシン・ゴドビ監督体制だった2012年は大胆な若返り策が図られ、小野はベンチからも外されたのだ。
この時点で彼は32歳。高度なテクニックと創造性は全くさび付いてはいなかった。けれども、指揮官の方向転換に巻き込まれ、試合に出られない。ベテランになればプライドもあるから、苛立ちが募っても当然だろう。それでも彼は「サッカーを楽しむ」というポリシーを貫き、決して辛い顔を見せずに練習に取り組んだ。
「試合に出れないのは悔しいし、情けない気持ちでいっぱいになりますよ。でもチームが勝つことが最優先だし、それによって自分自身も次へのモチベーションを得られる。僕は若い頃から試合に出られない経験を沢山してきて、自分1人じゃサッカーが成り立たないこともよく分かっています。人生っていうのは波があるから楽しい。前向きにやっていれば、それ以上、下に落ちることはないですからね」と当時の小野は自らに言い聞かせるように語っていた。
「人生は波があるから楽しい」と言ってのけた小野伸二(写真提供=河治良幸)
小泉佳穂ら小野を慕った後輩たちが成長。今後もサッカー界に還元を!
「天国」と「地獄」を味わった苦労人だからこそ、自分のエゴを抑えて「フォア・ザ・チーム」に徹することができたのだろう。その人間力は特筆すべきものがあった。
そんな小野を慕い、師匠として師事した後輩も少なくなかった。その1人がFC琉球時代に出会った小泉佳穂(浦和)だ。3日のラストマッチでも浦和の一員として対峙した彼は「伸二さんがいなければここまで来られていない」としみじみ語ったという。小泉も挫折を経て回り回ってプロになった小柄なテクニシャン。雑草魂で這い上がってきた自分と重なった部分があったから、特別に可愛がったのかもしれないが、そうやって後輩に影響を与えられるのも、小野の懐の深さを物語っている。
こうして26年間の現役キャリアのピリオドを打った小野。「この決断に悔いはない」と本人は清々しい表情で語った。「カズ(三浦知良=UDオリヴェイレンセ)さんが引退するまではやめられない」という言葉通りには行かなかったが、プレーヤーという立場を離れても、小野にはサッカー界に還元できることは沢山ある。卓越した国際経験や周囲を慮れる視野の広さや気配りを生かし、彼らしいセカンドキャリアを築いてほしいものである。
引退会見ではモットーの「楽しむ」を記した背景の前で思いを語った(写真提供=河治良幸)
取材・文/元川悦子
長野県松本深志高等学校、千葉大学法経学部卒業後、日本海事新聞を経て1994年からフリー・ライターとなる。日本代表に関しては特に精力的な取材を行っており、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは1994年アメリカ大会から2014年ブラジル大会まで6大会連続で現地へ赴いている。著作は『U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日』(小学館)、『蹴音』(主婦の友)『僕らがサッカーボーイズだった頃2 プロサッカー選手のジュニア時代」(カンゼン)『勝利の街に響け凱歌 松本山雅という奇跡のクラブ』(汐文社)ほか多数。