偉業を達成した黄金世代のシンボル&リーダー
気配りと目配りがつねにできる若武者は、79年生まれの「黄金世代」と呼ばれるタレント軍団の中でもつねにリーダーだった。同期には高原直泰(沖縄SV代表・監督・選手)、稲本潤一(南葛SV)、本山雅志(鹿島アカデミースカウト)、小笠原満男(鹿島アカデミーアドバイザー)、遠藤保仁(磐田)ら突出した個の力を持つ選手が揃い、99年ワールドユース(現U-20W杯=ナイジェリア)で準優勝するのだが、小野というシンボルがいたからこそ、彼らは1つにまとまれた。
フィリップ・トルシエ(現ベトナム代表)というエキセントリックな指揮官の下で、今の時代だったらコンプライアンス違反と言われるような指導を受けたが、彼らは小野を中心に強固な結束を前面に押し出し、世界2位という称号を手に入れたのである。
「大げさな言い方になるけど、伸二は日本サッカーを変えた存在」と盟友・稲本も語気を強めていた。その言葉通り、小野は数々の偉業を達成している。冒頭に挙げたように、18歳でのW杯出場・3度のW杯参戦、UEFAカップ制覇・3カ国への海外挑戦はもちろん、FIFA(国際サッカー連盟)主催のW杯、五輪、U-20・U-17W杯出場を総なめにし、UEFEのビッグトーナメントであるチャンピオンズリーグ、スーパーカップ、ELという当時あったクラブレベルの全大会に出ているのだ。
彼と同等の実績を残せる可能性があるのは、「史上最強」と評される現日本代表の中で久保建英(レアル・ソシエダ)ただ1人。その久保も年代別代表ではファイナリストになれていないし、UEFAスーパーカップに出るのはハードルが高そうだ。つまり、小野伸二は「前人未到の領域」に辿り着いたと言っても過言ではないのだ。
11月19日の本山雅志の引退試合に集まった黄金世代の面々(筆者撮影)
相次ぐケガで輝かしいキャリアに生じた狂い
その反面、彼は数々の挫折も味わっている。最たるものがケガ。一番大きかったのが、99年7月の2000年シドニー五輪アジア1次予選・フィリピン戦で負った左膝じん帯断裂だ。ケガからは復帰したものの、「プレーのイメージが湧かない」「今までみたいなひらめきが頭の中に出てこない」と苦悩し、調子が上がらず苦しんだ。
3日の現役ラストマッチ後の会見でも「自分のピークは高校時代」と苦笑していたが、ケガの前後で自分のプレーが180度変わってしまったと本人は感じているのだろう。にもかかわらず、その後のオランダで大活躍をしたのだから、「あのケガがなかったら彼はいったいどこまで上り詰めたのか」と感じる人は少なくないはずだ。
ただ、ケガの連鎖は続き、主軸と期待されたジーコジャパン時代も離脱を繰り返し、2006年ドイツW杯ではスタメン入りできなかった。フェイエノールトでも2~3年目は負傷続きで、イングランド・プレミアリーグなどトップクラブへの移籍は叶わなかった。それは本当に残念というしかなかった。
2006年ドイツW杯ではまさかの控えに終わった小野伸二(中列左から2人目=筆者撮影)