【短期集中連載 Vol.⑨】 カジノ&ギャンブル カジノゲーミンクの中のアレコレ『人の心を裸に? ギャンブルの麻薬性はお互いの素をさらけ出す』
ナマステ。カジノライターのかじのみみです。バクチ、ギャンブル、カジノ施設での勝負。平穏な日々を望む一方で、人はさまざまな「戦い」を繰り広げているようです。なぜでしょう? シリーズ⑨のタイトルは、『人の心を裸に? ギャンブルの麻薬性はお互いの素をさらけ出す』です。
バクチ、ギャンブル、カジノプレー。ギャンブル行為は全体的に、ときとして、肉体的にも精神的にも人を裸にしてしまうソーシャル活動であることは歴史の物語を見ても間違いないと言えるだろう。
程度の差こそあれ、さまざまなギャンブルをおこなう者であれば、自分が捻出した賭けの軍資金が本当は手を出してはいけないお金だったことはないだろうか。
また何かの約束の時間が過ぎても賭け行為を止められず、後日に大目玉を食らったことはないか。
あるいは現在も尚、越えてはいけないボーダーラインを行ったり来たりするプレーヤーが秘密裏のカジノ施設にいそいそと足を運んでいる途中かもしれない。
ギャンブルの「戦い」には、麻薬的な魅力でもあるのだろうか?
ギャンブルで丸裸になるエピソードは南北朝時代にも
ここで時を日本の南北朝時代(14世紀頃)にさかのぼってみたい。いまから700年ほど前にバクチで甲(かぶと)などを取り上げられてしまった様子が描かれた記述が『塵塚物語』にある。次にご紹介しよう。少々長い引用、恐縮である。
「健武以後、戦乱がつづき、武士が出世する好機であるが、そのような今、武芸の達人が天下に少ないのは、どういうわけかと考えてみると、それはばくちのためのようである。
大勢の武士の陣営の中での楽しみは、大将をはじめとして、下の者の与力、足軽といった者にいたるまで、好んでばくちをすることで、あるときは、一勝負ごとに銀の五貫、十貫、砂金包の五両、十両を賭けつづけるので、山のような多額の金銀も、またたく間に負けてしまう。そんな者のなかには、あとでは、ばくちに品物もかけ、時に、武具や馬具の類のすべてをとられて、思わぬ苦労をした者もいると言い伝えられている。
畠山某の家来の者が、ある戦場へ出かけたとき、そのなかには、甲(かぶと)だけつけた、鎧(よろい)なしの武者がいたり、また、鎧を着けながら、太刀や甲のない者がいたりして、中・下の武士のよそおいは、たいてい、不備で、異様なものであった。しかし、そのときの手柄の多くは、それら不備の者がたてたということである。
それは、ばくちに打ち込んで、困り果てたあげくの機会だったため、今度のいくさこそは、きっと必死と心得て、そこで汚名をそそごうとの一心で戦ったからにちがいない。」
『塵塚物語』 (教育社新書、鈴木昭一訳)より引用
南北朝時代の日本にはギャンブル行為で金銭を失い、物を奪われ、裸に近い格好で戦場に向かった者がいたようである。今の時代だからこそ笑い話である。
尻に火が付いた兵士が一旗立てたいと奮起し、その結果、大きな功績につながった。現代でもこれに近い現象は起きているかもしれない。
自宅に泥棒が入っても目の前のギャンブル優先
その例として、筆者が過去に聞いたカジノ区画での話を1つお伝えしよう。
アジアのカジノ施設で開催された優勝賞金「約1000万円」のバカラ大会に出場したプレーヤーA に、ゲームが始まる瞬間、日本から電話が入った。「自宅から1000万円が盗まれた!」という内容の連絡であった、本人も現場も大慌てとなった。
カジノ施設のアテンダーは、「大丈夫ですか? すぐに帰国しますか?」と確認を入れたようだが、本人は憮然とした態度で、怒りを抑えながら、バカラ大会の出場を強行しプレーを続けたという。
そしてなんと!見事優勝を果たし約1000万円の優勝賞金を手にした。盗まれた1000万円の「すき間」に、大会で獲得した1000万円がすっぽりと収まった。
大会終了後、プレーヤーA は「ふう、マジでよかった……」と喜びよりも安堵した表情で心の奥にあった恐れや複雑な思いをカジノスタッフに吐露したらしい。
日本に「即帰国」という選択を行わず、プレーヤーA はカジノ施設に留まりプレーを続けた。前に伝えた南北朝時代の兵士たちも物を奪われながらバクチを続けた。ここまでくると「ギャンブル好き」の次元を通り越している。なぜここまでやらなくてはならないのか。
ギャンブルの麻薬性は日常生活ではできない経験があるから
恐らくそれは、自分のことも含めて、戦う人は「人」を知りたいからだろう。
自己の限界と出会ってみたい。他者の敗北、「底」が見たいとひそかに願ってもいる。とても複雑で繊細で、愛に満ち溢れてはいるが、両極端な感情を持っているのが人の常である。
カジノギャンブルを含む賭博行為は動物的な「直感」を必要としながら、人間の特権ともいえるような「知的活動」が備わっている。これもギャンブル全般における魅力だ。
人は日々の生活で気心が知れた友人や家族以外には、「自分の本音」をさらけ出すシーンはほとんどないだろう。
建て前とホンネを使い分けている。
もしかしたら「ダブルスタンダード」(二枚舌)が当たり前となった生活を送っている人もいるかもしれない。社会に気を遣い、他者様から嫌われることを避けるために……。
宴会の席では多少はくだけて本心を語り合うことはあるだろうが、シラフに戻ったときは宴会上の話は忘れているか、意図的に”流してしまう”こともあるのだろう。
だが、カジノギャンブルを含む戦いでは事情はまったく異なってくる。
特に相互のメンツを賭けたガチンコ勝負では、そこにはみじんの遠慮はないし勝ちをわざと相手に譲ったりもしない。素の状態で本音と本音がぶつかり合うのだ。
ふわ~っとしたうわべの話やイエスマン的な振る舞いではなく、毅然とした態度で本音が語り合う世界。本音と本音が話すと心の根っこの部分が反射される。聞きたくないこと、できれば蓋をしておきたかったモノゴトにも光が当たる。決して心地よくはないのだが、自分を知る上では必要な媒介だ。
現在のカジノ区画のギャンブル勝負にはそのような場面が多々あり、リスクを背負ってでも味わいたいと思う程に、得難い体験なのだろう。
取材・文/かじのみみ
カジノライター/カジノコンサルタント
カジノ、ギャンブル、IR業歴31年。ディーラー歴25年。1992年より全国各地で開催された120件以上の「模擬カジノ」の企画、運営、ディーリング業に携わる。2008年から米系大手カジノ企業のVIPマーケティング・通訳・経理担当。2013年8月に同企業を離れフリーとなり、IRの誘致活動に従事。2020年以降は、カジノとギャンブル関連の執筆、スポットコンサル、通訳業に専念し、現在に至る。大阪生まれ、横浜・インドボンベイ育ち