アイデアノミカタ「イブ・サンローラン」
かつて20世紀のファッション業界において「モードの帝王」と呼ばれ、女性たちのワードロープに変革をもたらしたイブ・サンローラン。
没後日本ではじめてとなる大回顧展が現在、国立新美術館で開催中(9/20-12/11)です。
そこで今回のアイデアノミカタは、イブ・サンローランの半生と偉大な功績に迫りたいと思います。
生まれながらの天才だった
1936年、アルジェリアの港町オランでイヴ・サンローラン(以下,イブ)は生まれました。
彼の両親はファッション業界とは無縁の保険業界で働いており、イブは中流階級の豊かな家庭で育ちました。また流行を取り入れることが大好きなイブの母親が、鏡の前でファッションを楽しむ様子をイブは好み、幼少期より美しいものに対する関心が高かったことが伺えます。
1953年、17歳となったイブはパリで開かれた国際羊毛事務局のデザイン・コンペで3位になり、これがきっかけで仏ヴォーグ編集長ミシェル・ド・ブリュノフと将来の展望について語り合ったといいます。
1954年、イブはパリへ渡り、サンディカ・パリクチュール校のデザインコースで学び始めます。
この年、国際羊毛事務局のコンペで四部門中三部門で1位を獲得します。ちなみに残りの1部門であるコート・デザインでは、後にシャネルのデザイナーになるカール・ラガーフェルド(1933-2019)が1位を獲得しています。
1955年、イブは19歳にしてクリスチャン・ディオールのデザインアシスタントに採用されます。
またイブが最初にデザインした白のハプニングドレスが「ハーパース・バザー」に掲載され、その写真はリチャード・アヴェドンが撮影したものでした。
1957年、急死したクリスチャン・ディオールの後継デザイナーに指名され、瞬く間に名声を得ていきます。このとき、イブはまだ21歳であり、当時、どれほど凄まじい才能であったのかを感じる出来事ではないでしょうか。
ディオール解雇とピエール・ベルジェとの出会い
1958年、当時の社交界を仕切っていたマリー=ルイーズ・ボスケが設けた食事会で、
イブは生涯を共にするピエール・ベルジェ(以下,ベルジェ)と運命的な出会いをします。
当時、ベルジェは画家のベルナール・ビュフェ(具象絵画の代表的なフランス人画家)の恋人兼マネジャーであり、一方、イブはディオールの後継者として選ばれた有望なデザイナーでしたが、出会いから半年後には一緒に暮らしていたようです。
1960年、イブがディオールで発表したパリの実存主義者をテーマにした黒のジャケットなど、60年代特有のカウンターカルチャーを予見させる「ビート・ルック」を発表しましたが、これに当時のディオールの保守的な顧客と経営陣が反発し、イブはディオールを解雇されてしまいます。
こうした苦難の状況で、イブの相方であるベルジュは契約不履行の訴訟を起こしてディオールから賠償金を得るなど、イブがメゾンを設立するための活動資金に奔走します。
1961年、イブは遂に自身のメゾンとなる「イブ・サンローラン」を設立し、1962年には念願のイブ・サンローラン初となるオートクチュールのコレクションを発表し、以後、ファッション業界に賛否両論を巻き起こしていきます。
こうしたイブの活躍の舞台裏には、相方のベルジュの貢献があったのです。