2022年3月のカタールワールドカップ(W杯)アジア最終予選の大一番・オーストラリア戦(シドニー)での2ゴールに始まり、W杯・スペイン戦での「三笘の1ミリ」、そして22-23シーズン・イングランド・プレミアリーグでの快進撃と、わずか1年あまりでサッカー界のスーパースター街道を一気に駆け上がった三笘薫(ブライトン)。
6月には初の自著「VISION 夢を叶える逆算思考」(双葉社)を初版5万部という異例の発行部数で発売。全日本空輸(ANA)との個人スポンサー契約も締結した。ANAとスポンサー契約したアスリートはプロフィギュアスケーターの羽生結弦、車いすテニスの国枝慎吾といった国民栄誉賞を受賞した偉大な選手ばかり。そこに名を連ねたことで、三笘が国民的トップアスリートと認知されたことになる。
「日本サッカーの顔」に上り詰めた三笘薫
まさに「日本サッカーの顔」と言っても過言ではない三笘だが、彼が神奈川県川崎市生まれで、地元少年サッカークラブ「さぎぬまSC」から川崎フロンターレのアカデミーに入り、大きく成長したことは広く知られている。
川崎のジュニアチームである川崎U-12は2006年に発足。板倉滉(ボルシアMG)、三好康児(バーミンガム・シティ)らが1期生で、1つ下の三笘は2期生。その下に田中碧(デュッセルドルフ)ら3期生がいる。さらに久保建英(レアル・ソシエダ)も三笘の4つ下で、バルセロナに赴くまで川崎でプレーしていた。
高崎氏が問いかけ続けた「世界基準とは何か?」
今の代表を担うタレントが同時期に集まったことだけでも奇跡的ではあるが、指導に当たった髙崎康嗣監督のアプローチ方法もまた独特だった。
「彼らには『世界基準とは何か?』をつねに意識させるべく、指導をしてきました。
海外の相手と互角に戦うためにはボールを止める蹴るの技術はもちろんのこと、正しい体の使い方やボールの置き方、相手とぶつかり合う勇気や当たりの強さや球際の激しさ、そしてスピードや持久力などのフィジカル的な要素も兼ね備えていなければいけません。
『いつでも・どこでも・誰とでも・どこに行っても自分の力を出せるのがいい選手だ』とも常日頃から話していましたが、そのためにはコミュニケーション力も大事。滉や薫、碧が今、海外に行って外国語での意思疎通を普通にしていると聞きますが、それも彼らにとっては『当たり前にやるべきこと』という感覚だったんだと思います」と恩師は改めて強調する。
板倉、三笘、田中碧、久保を指導した高崎康嗣氏(筆者撮影)
1970年、石川県生まれ。東京農工大学卒業後、サッカー指導の道に進み、2006~2011年に川崎U-12で監督を務める。2016年にはいわてグルージャ盛岡ヘッドコーチに就任し、2019年に専修大学監督に。同年にJFA公認S級コーチングライセンスを取得。2022年はテゲバジャーロ宮崎監督を務めた。現在は尚美学園大学コーチの傍らで、フガーリオ川崎アドバイザーなども務める多忙な日々を過ごす。
一般的な小学生に「世界基準」と言っても、ピンと来ないのが普通だが、川崎ジュニアの選手たちは違った。というのも、彼らは小学生高学年世代の世界大会であるダノンネーションズカップの出場権を獲得し、早くから外国人選手の凄さを目の当たりにするチャンスに恵まれたからである。
板倉や三好ら1期生が中心だった2008年フランス大会には小5の三笘も参加。身長140センチ台の小柄な少年は大柄な黒人選手と対峙して「どうしたら自分の力を出せるか」と必死に考えたはずだ。
さらに、三笘は2009年の国内予選にも優勝して、2010年夏に開催された南アフリカ大会に参戦。本田圭佑や遠藤保仁(磐田)が躍動したアフリカの地で未来の代表を夢見ながら、外国人選手と堂々と渡り合ったことだろう。
「僕が指導した川崎ジュニアの数多くの選手の中で、薫のポテンシャルは頭抜けていました。とはいえ、彼は成長が遅くて、小6の時点で150センチくらいしかなく、中学までは本当に小さい選手だったので、フィジカルコンタクトの部分でかなり苦労したと思います。
それでも、ダノンの2大会を経験して、ワンタッチで相手をかわす、ドリブルで食いつかせるといった駆け引きを覚えたことには大きな価値があった。激しくタフな守備の重要性も感じたことでしょう」と髙崎氏は三笘にとって10代前半の世界舞台がどれだけ大きかったかを、改めて代弁していた。