牧野富太郎の妻は、浜辺美波のような美人だったのか?
連続テレビ小説「らんまん」が好調だ。オリジナル脚本の現代劇が2作続き、どちらも迷走気味だったこともあって、歴史上の実在の人物である牧野富太郎がモデルの今作は「これぞ王道の朝ドラ」「安心して見ていられる」という声が多い。
「らんまん」の主人公・槙野万太郎が上京し、後の妻となる寿衛子(すえこ)を演じる浜辺美波が登場すると、さらにボルテージが急上昇。それまでは流して見ていたが、ここから真剣に視聴を始めたという男性も多いのでは。だが浜辺美波の美しさが際立てば際立つほど、「実際の奥さんも、こんなに美人だったんだろうか?」という素朴な興味がむくむくと湧いてくる。
幸い、2022年に牧野富太郎が生誕160周年を迎えたことで、関連する書籍の刊行ラッシュが続いているし、牧野自身が晩年に著わした自叙伝も再刊されている。それらを参考に、牧野の妻・寿衛子がどんな人物で、どんな一生を送ったのか、2人はいったいどんな夫婦だったのか、調べてみた。
富太郎と寿衛(1924年8月 牧野博士62歳) ※高知県立牧野植物園提供
「菓子屋の店先きに、時々美しい娘が座っていた」
牧野が晩年に著わした自叙伝の中の「わが初恋」という章には、妻との出会いが以下のように記されている。
「東京は飯田町の小川小路の道すじに、小沢という小さな菓子屋があった。明治二十一年頃のことで、その頃私は、麹町三番町の若藤宗則という、同郷人の家の二階を借りて住んでいた。私はこの下宿から人力車に乗って九段の坂を下り、今川小路を通って本郷の植物学教室へ通っていた。そのとき、いつもこの菓子屋の前を通った。
この小さな菓子屋の店先きに、時々美しい娘が座っていた。」
これを読むと、実際の寿衛子もかなりの美人だったことがわかる。
結婚した時、寿衛子はまだ14歳だった!
牧野は知り合いを通して縁談を申し込み、承諾をもらう。そして明治二十三年に結婚し、根岸に新居を構える。この時、牧野は25歳で妻の寿衛子はなんと、まだ14歳・・・。当時の14歳は今よりも大人であり、当時としては珍しくなかったかもしれないが、現代人から見るとなかなかにショッキングな事実だ。
武士の娘で、お嬢様だった!
ちなみにドラマの中では、寿衛子の母親は柳橋芸者で、士族である父親の妾だったという設定になっている。だが実際は、寿衛子の父親は元彦根藩士で維新後は陸軍に勤めており、寿衛子は父が亡くなるまでは飯田橋の広大な屋敷に住んでいた。父亡きあとに屋敷は人手に渡り、京都生まれの気丈な母親が女手ひとつで菓子屋を営み、寿衛ら姉妹を育てていたという。ドラマでは根っからの庶民に描かれているが、もともとは寿衛子も牧野同様、贅沢な子供時代を過ごしていた。だからこそ結婚後、どんなに経済的に苦しくても贅沢な食事や嗜好品への好みを捨てられなかった牧野の気持ちが、理解できたのかもしれない。
牧野には、もう一人の妻がいた!?
「草を褥に 小説牧野富太郎」によるとまだ実家暮らしをしていた1884年(明治17年)、牧野は2歳年下の従妹の猶と祝言を挙げ、その後、猶は本家岸屋の若女将となっている。だが自叙伝の年譜にはこのことは一言も触れていない。当時はまだ戸籍制度も厳密ではなく、単に形式的なものだったのかもしれないが、「草を褥に 小説牧野富太郎」の著者・大原富枝氏はそれをまっこうから否定しており、祖母の死後は祖母の遺言を守り、猶が牧野に資金援助を続けていた事実から、この祝言が実効性の高いものだったと断言している。
猶については
「お猶さんは頭もよく、人柄もしっかりしている。しかし残念ながら美人ではない」
「お猶さんはやさしいところもあるひとなのに、残念なことに肉体的に骨格がいかめしすぎた」
などと描写している。
ちなみに明治24年(結婚の翌年)、ついに実家の岸屋が経済的に破綻すると牧野は、猶と番頭を結婚させ、店の後始末を託している。経済観念ゼロの自分が、倒産した家業の後始末をすることは不可能であると自覚していたからだろうし、猶もそれがわかっていたからだろう。自分の人生を捧げ尽くして牧野の研究を支えたのは寿衛子だったが、猶もまたその一人だったのだ。そう考えると、せめて自叙伝の年譜には入れて欲しかったような。
13回も出産、そのうち無事に成人したのは6人
寿衛子は結婚後、毎年のように妊娠している。妊娠回数が13回で、そのうち成人したのは半分以下の6人、ほかは幼くして亡くしている。最初に授かった長女の園子が風邪をこじらせて4歳で亡くなった時、牧野は1年間も家を留守にしていた。寿衛子はまだ十代でありながら、臨月の身で2人の乳飲み子を育てつつ、10日ごとに来る借金取りをなだめて追い返し、やりくりをして生計も支えなければならなかった。しかも当時の手紙を見ると、そんな状態でありながら、牧野の親戚の病人まで預かっている。
壮絶なまでのワンオペだが牧野への手紙で、「(子供の死の)すべての非は自分にある」とひたすら牧野に謝罪している。母親としての泣きごとはひとつもなく、ましてや牧野の不在を責める言葉も書かれていなかったそうで、気丈な性格だっただけでなく、武士の娘としての矜持がそうさせたのかもしれない
牧野は自叙伝で以下のように述べている。
「この苦境の中に、大勢の子どもたちに、ひもじい思いをさせないで、とにかく学者の子として育てあげることは全く並大抵の苦労ではなかったろうと思い、これを思うと今でも妻が可哀そうでならない。
私は、この苦労をよそに、研究に没頭していた」
子育てばかりか、借金取りの対応もワンオペ
小学校中退という学歴のハンディから、牧野は人生の大半を薄給に甘んじなければならなかった。それでいて坊ちゃん育ちで節約という概念がないため、一家の経済状態はもっぱら高利の借金に頼らざるを得ず、一時は現在の金額で2千万円ほどまで借金が膨らむ。
家賃は滞納が常態化していて、追い出されて引っ越ししては滞納して追い出されるため、一家は30代から40代の間に30回以上も引っ越しをしている。借金取りがわずかな家財道具をほとんど持って行ってしまうことも珍しくなかった。
10日ごとに利息を取りたてにくる借金取りの対応をするのは寿衛子の役目だったが、ここで天賦の才能を見せている。ふだんはすっぴんだが、借金取りが来る日は薄化粧をし、巧みに話をそらしながら相手の機嫌をとって話をごまかし、相手の身の上話を聞きだす。人は、自分が話したいことを聞いてくれる相手に怒り続けることはできない。しかも相手は美人で愛嬌たっぷりだ。怒鳴り込んできた借金取りも最終的には上機嫌で、寿衛子に手を振って帰っていくのが常だったという。「牧野は研究で忙しくて、借金取りに対応する暇もなかったんだな」と好意的に考えていたが、自叙伝によるとそうではなかった。
「家の門に赤旗がでていると、これは借金取りが来ている危険信号であった。そして、赤旗がなくなると、やっと家へ入るようにした。鬼のような借金取りとの応対は一切女房がやってくれた」