コロナ禍を機に、一気に加速した「DX」だが、行きつく先にはどんな未来が待っているのか。2020年の都知事選にも立候補した小説家、沢しおんが2040年のTOKYOを舞台にIT技術の行く末と、テクノロジーによる社会・政治の変容を描く。
※本連載は雑誌「DIME」で掲載しているDX小説です。
【これまでのあらすじ】
二十年のうちにデジタル化が浸透した二〇四〇年の東京。都庁で近々役割を終える「デジタル推進課」の葦原(あしはら)は、量子ネットワークから消えた住民データの調査を情報公開課と進めていたが、AIの采配によって知事選挙の応援を命じられてしまう。残された業務をエンジニアの谷津(やづ)が引き継いだが──。
デジタルアイデンティティ
谷津は昨日の帰り際にAIに依頼しておいたコードレビューの結果を受け取ると、そのまま申請に回した。
「今、復旧用コードの実装申請をヌーメトロン宛に出しました。すぐ大黒(おおぐろ)さんの端末に届くと思うので稟議進めてください。課長決裁でいける件ですし」
ヌーメトロンは行政支援AIの総称だが、実態は複数システムの集合体である。谷津が使用したのは、職員が使用する行政サービス改善用AIで、かつては「ノーコードツール」と呼ばれるプラットフォーム上で手作業で作成していた作業を完全に自動化したものだ。ここ十年、職員は企画立案をするだけになり、ツールすら使わずにテストから実装までAIが適切に行なっている。
「それにしても、AIが関わるシステムを修正するコードをAI自身が作って、それが対象の業務に適しているかをさらにAIがレビューするってとこまではわかるんですよ。ダブルチェックみたいで。でも、その後にわざわざ職員が申請書を決裁システムに流して上司の承認が要るって、何の二度手間ですか」
「まあそう言うな」
大黒は自身のPA(パーソナル・アシスタント)端末に届いたドキュメントを確認して、決裁を進めた。
本来なら全自動で進んでしまう工程に職員による確認が挟まるのは、いかにも役所らしいといえばそのとおりだ。
「ぼくは修正の提起をして、チャットでヌーメトロンと仕様についての会話をしただけ。要件定義も勝手にしてくれる。人間を要らなくしたらもっと捗るっていうね」
「我々の仕事をわざわざ残してあるんだよ」
そう言われて、谷津は「非効率極まりないったらありゃしない」と呆れた。
谷津が今回した作業の大部分は、消失したデータが何であるかを突き止めることだった。そもそも住民データの内容を取り扱っているのは市区町村だから、データの不整合などはそこで対応を完了するのが筋だ。修正用のインターフェースも完備されている。
だが、情報インフラに関わるインシデントになると、市区町村では管理用の画面でできる以上のことは知見がなくて行なえない。おまけに今回は住民の失踪が関わっていたことから、早々に情報インフラを管轄する広域自治体の都へ丸投げされた形だ。
都のデジタル推進課としては、個人情報の消失にスポットを当ててしまっては範囲外の業務となる。あくまでも情報インフラのトラブルを解消したところ、副産物的に特定の情報が復旧されたという落とし所にせざるを得ない。
「目の前にある問題を問題だと認識できるのは、人間にしかできないよ」
大黒は不満そうな谷津をなだめるように言った。
「そんなもんですか。今回の件が手こずったの、ブロックチェーンに紐づいている個人情報をつけ直す程度の話じゃなかったんで、デジタルアイデンティティ空間にダイブして調査するのに時間がかかったんですよ」
「多い人ならここ十五年の人生の諸々が網羅されているわけだからな」
「十五年っていうと震災の直後ですか? こんな厄介なデータを取り扱うようになったのって」
「震災の少し前だな。大正時代の関東大震災から百年という節目で、防災における個人情報取り扱いの指針が国から示されたんだが、適切に扱えた自治体はまだ少なかった。今じゃ当たり前になっているが、深層学習で絵を描くAIや大規模言語モデルのAIが当時話題になっていて、個人情報も吸い取られて悪用されるなんて言う人もいた時代だ」
デジタルアイデンティティの考え方が浸透したのは二〇二〇年代の中頃で、それよりも前からライフログという概念は存在したが、これをアイデンティティとして総括できる状況ではなかった。そうこうしているうちに、行政機関にマイナンバーに紐づけられたデータが増え、民間ではテック企業が蓄積するデータが膨大になり、利用者によるコントロールが及ばない上に、目的外利用の懸念が高まっていた。
それが、二〇二五年の令和関東大震災後に状況が一変した。災害時に個人情報を利活用できた自治体と、当時盛んだったデジタルトランスフォーメーションやAI防災圏構築の波に乗り切れなかった自治体とで、人的被害に大きな差が出たという研究結果が発表されたのだ。
それまで個人情報のリスクといえば住所や氏名が漏れることだと思い込んでいた大半の国民に、デジタルアイデンティティの取り扱いを適切にしないことこそがリスクで、行政にありがちな不作為がデジタルにおいても人命や人生に関わってくるのだというイメージが広がった。
「今じゃコントロールできないどころか、PAがいい感じに管理してくれるようになりましたからね」
「もちろん、まだマイナンバーカードと窓口を必要とする人もいるし、デジタルアイデンティティを完全に管理しきれないスマホでも行政に関わる手続きを済ませることもできる。前世代の技術をいつまでサポートし続けるのかというのは、今後の課題だよ」
「この行方不明の人もマイナンバーカードを使って都度本人が認証してたようですね。復旧をどうしようかと考えていた時、ブロックデータを遡って変更や追加があった内容を一つ一つ拾い上げ、再度それを時系列どおりに記録しなおすってやり方に辿り着いたんですが、その時に認証のログがキーになって見つけやすかった」
「拾い上げたデータは一度展開して確認するのか?」
「さっき申請したコードでは、できる仕様になってます。職員がチェックする工程を必ず入れなければならないって、ヌーメトロンに指導されました。正直なところ内容の目視なんて要ります? 個人情報だからこっちが知るものではないし、行方不明者だから本人に確認してもらうこともできないし……」
その時、大黒と谷津のPA端末に同時に「実装完了」のシステムメッセージが届いた。谷津はモニターを食い入るように見つめ、驚きの声を上げた。
「大黒さん、意味不明なことが起こってます。実装されたプログラム、動かす前にデータが完全に復旧してるみたいです」
谷津がモニターを指し示す。大黒が覗き見ると、閲覧できる範囲のデータは整然と埋まっているように見えた。
「中身は正しいのか」
「確認しないとわかりません。そもそも自動的に実行されているのがおかしいんで、ちょっと戸惑ってます」
「……これ、確か高校生くらいの妹がいると聞いていたが、これだと随分年齢が離れている」
「見るからにおっさんのデータですね。年の離れた兄妹だったのかな。今々なら葦原さんに聞いたほうがわかるか。聞いてみます」
谷津はすぐにPAを使って葦原とコンタクトをとった。
(続く)
※この物語およびこの解説はフィクションです。
【用語・設定解説】
AIによるコード実装:現代でもChatGPTを用いてAIにコードを書かせる試みは行なわれているが、2040年におけるインターネットサービスは基本的にAIによる自己改善・拡張がされている。例えばeコマース分野では、AIがどのようなロジックでサービスを修正したのか人間にはわからないが、それを機に売り上げがアップするなどのことが日常的に起こっている。
デジタルアイデンティティ:今回の物語では、登場人物たちが追ってきた個人情報だけでなく、発売中の『日本が世界で勝つためのシンID戦略』(DIME編集部/編)で語られた「デジタルアイデンティティ」が、どのようなきっかけで社会に広く実装されたかを、仮説として組み込んでいる。
沢しおん(Sion Sawa)
本名:澤 紫臣 作家、IT関連企業役員。現在は自治体でDX戦略の顧問も務めている。2020年東京都知事選にて9位(2万738票)で落選。
※本記事は、雑誌「DIME」で連載中の小説「TOKYO 2040」を転載したものです。
過去の連載記事一覧はコチラ
CHECK!これからのビジネスの核心、デジタルアイデンティティを学びたい人におすすめ!
『日本が世界で勝つためのシンID戦略』
DIME編集部/編
小学館 1430円
https://www.shogakukan.co.jp/books/09389106
日本におけるデジタルアイデンティティ活用のあるべき姿とは? こちらのページで紹介している4人が、それぞれの視点で背景にあるトレンドなどを交えて問題提起、これからのビジネスの核心に迫った1冊。
取材・文/太田百合子(尾原和啓)、橋本 保(武邑光裕)、久我吉史(岡嶋裕史)、成田 全(沢しおん)