【今月のマストリードな1冊】『愛の不時着』ファンなら読むべし!
今さらの話題で恐縮ですが、韓国の大ヒットドラマ『愛の不時着』にハマった方に熱烈推薦できる小説が出ているのをご存じでしょうか。直木賞をはじめ名だたる文学賞を受賞している人気作家・井上荒野の連作短篇集『僕の女を探しているんだ』(新潮社)です。
著/井上荒野 新潮社 1870円
家が隣同士で、生まれた時からほとんど一緒に育った同い年の少年・秋斗が、東京の小学校に転校すると知ってうろたえる〈あたし〉の心情を丁寧に綴った「今まで聞いたことがないピアノの音、あるいは羊」。
最愛の夫を心筋梗塞で失った初老の〈私〉が、18年間2人で住んだ山の家で抱える埋めようのない喪失感を静かな筆致で描いた「亡き人が注文したテント」。
ピアノが置いてあるゲイバーの常連客から都合のいい相手としてもてあそばれている〈僕〉の、悲しみと悔しさと屈託、そこからの解放までを描いて清々しい読後感をもたらす「静かな、もの悲しい、美しい曲」。
初めて本気で大事にしたいと思える相手と出会ってしまった自分の心と向き合おうとしない〈俺〉の不安定な気持ちを、なりゆきからコンビニ前で盗まれた他人の愛犬を探すことになった事情にのせて描いていく「ポメラニアン探し」。
特に好きでもない男の子と、大人になるための入口だからとつきあおうとしている16歳の〈私〉が、本当の意味で大人であるというのがどういうことなのかを悟るまでの物語「大人へのボート、あるいはお城」。
妻や26歳になる娘からないがしろにされている〈僕〉が、衝動的に乗り込んでしまった東京行きの列車内で経験する出来事を通して、家族や仕事に対して抱いていたモヤモヤを吹き飛ばすまでを、シチュエーション・コメディのようなタッチで描く「真木とマキ、あるいはきっと辿り着ける場所」。
妊娠したことを恋人に告げられない26歳の〈私〉の繊細な心の揺れ動きを綴って優しい物語「偽物の暖炉の本物の炎」。
タワーマンションの25階に住む50歳になる〈私〉の、自分を「おばはん」扱いし、浮気を繰り返す人気俳優の夫に対する諦念と冷ややかな気持ちからの解放を描いて爽快な「塔、あるいはあたらしい筋肉」。
パパ活でお小遣い稼ぎをしている大学生の〈私〉が、会ったばかりの“パパ”に倒れられてしまった顛末を描いた「今まで着たことがないコート、あるいは羊」。
全9篇の「愛とは一体何なのか」というドラマの核心をつくテーマ
……という9篇が収められているんですが、各篇の粗筋を読んでくださった方は首をひねっておられることでしょう。「そのどこに『愛の不時着』要素があるのか」と。実はすべての物語に〈背が高くて手足が長くて、すごくきれいな顔をした〉〈黒いタートルネックに黒いパンツ、黒いコートという黒ずくめの格好〉の30代半ばの男性が登場して、主人公の窮地を救い、ネガティブだった心境を明るいほうへといざない、快復させる役割を担ってくれているんです。
そう、その人こそが『愛の不時着』のリ・ジョンヒョク(演じたのはヒョンビン)! で、ピアノや貝のガソリン焼き、ワインのソーヴィニヨンブランなど、ドラマを見た方なら「!」と思うようなエピソードを小説のそこかしこで使っているばかりか、作者の井上さんは「愛とは一体何なのか」というドラマの核心をつくテーマを全9篇で描こうとしているんです。
〈強くて、かわいい、すばらしい女性〉である大事な人、生涯をかけて守ると誓った運命の人と再会するためにこの小説世界に降臨したリ・ジョンヒョクが、どんな風に9篇の主人公らを助けるのか、大切な人セリと再会できるのかを楽しみに読み進めていってください。本を閉じた時、自分の胸に手を当てて〈愛はここにいる〉〈羊みたいな感じのものだと思う。一匹ずついるんだ、みんなの中に〉という言葉にうなずく自分がいるはずですから。
文/豊﨑由美
とよざき・ゆみ
1961年、愛知県生まれ。今月からこちらで本の紹介をすること