再発見!金融経済アルキ帖〜プラザ合意、ブランクマンデー、日本のバブル経済の教訓〜
日本経済を語る際にたびたび「失われた30年」という言葉が使われることがあります。
では「失われる前」に何があったのかというと、今では信じられない空前のバブル景気が日本にもありました。
そこで今回は日本のバブル経済とその前後の世界経済に何があったのかに注目したいと思います。それでは「再発見!金融経済アルキ帖」のはじまりです!
プラザ合意に至るまでの世界経済の状況
そもそもプラザ合意とは何かというと、1985年9月22日にニューヨークのプラザホテルで開催された当時の先進5カ国(米、仏、独、日、英)の蔵相・中央銀行総裁会議で行われた下記2つの合意です。
・米国の貿易収支改善のために円高とマルク高(当時の独通貨)を意図的に誘導すること
・仮に順調に進まない場合、政府による協調介入を通じてでも目的を達成する。
こういうものでした。
ちなみに為替レートに世界経済が翻弄されるようになった背景には、1971年のニクソン・ショックを契機とした「変動為替制度」を導入する国が増えたことで、為替レートを市場で自由に決められるようになったことが大きな要因です。
そもそもなぜ為替レートが変化するのか?というと、買いたい人が売りたい人より多ければ値上がりし、売りたい人が買いたい人より多ければ値下がりする、こういう構造でレートが決まるのです。
ではプラザ合意前の米国経済がどんな状況だったのかというとドル高が進む状況でした。この背景には当時のFRB(連邦準備制度理事会)ボルカー議長がインフレを鈍化させるために大幅な利上げを断行したことにあります。これによりドルに対する信頼感が高まり、世界中の投資家のマネーがドルに集中することになったのです。ところが長くドル高が続くと今度は米国の経常赤字が度々問題となっていきます。
こうした理由から米国主導のプラザ合意が必要とされ、対米輸出の割合が高い他国は米国の要求を拒む力がなかったことも合意の背景にあるといえるでしょう。
プラザ合意前後のドル円の為替レートと円高不況
ドル・円の為替レートがどんな値動きを見せたのかというと、プラザ合意の直前は1ドル242円でしたが、合意後の9月末には1ドル216円と円高が進みます。さらに10月末には211円、11月末には202円と短期間で円高がさらに進んでいきます。
こうして急激な円高によって日本経済に何が起きたのかというと、円に対するドルの価値が大幅に下落することで輸入品の価格が下落します。この場合、日本製品も価格を下げる必要に迫られ、特に日本の輸出業はこれまでよりもはるかに悪条件で競争をしなければなりません。
当時の日本社会にはこのまま円高が続いてしまうと輸出業は存続できないという危機感に覆われていたといいます。
円高不況に対する日銀の対応
こうした円高不況に日本もただこまねいていたわけではなく、当時の日銀は金利引き下げの対応をしています。実際、プラザ合意の直前では5%の公定歩合でしたが、1987年に2.5%まで公定歩合を下げています。これにより日本の輸出業は厳しいままでしたが、内需が回復したことで日本経済も再び活気付いていきます。
さらに原油価格の下落も日本経済にとって追い風となります。1985年末には1バレル30ドルであった原油価格が86年初頭に急落して1バレル15ドルと急激に下落します。
これにより日本経済は原油の値下がりによって輸入物価が安定し、経常収支も改善することになります。なぜなら輸入原材料の価格が下がることで、円高ではあるものの輸出競争力が上向くからです。また輸入代金の支払い負担も軽くなるので経常収支の悪化を最小限に抑えることが出来たのです。
プラザ合意から2年後に起きたブラックマンデー
日本が円高不況に対応している同時期の米国はというと、プラザ合意による特需に沸いていました。なぜならドル安によって輸出業の業績が急回復したからです。
特に自動車業界は日本車との厳しい競争から当面の間、落ち着くことができる安堵感もあったようです。
ところがプラザ合意がもたらしたものはドル安の恩恵だけでなく、好景気は2年しか続きませんでした。待ち受けていたのは歴史的な暴落を引き起こした1987年10月19日月曜の「ブラックマンデー」です。この日だけでダウ工業平均株価は前日比マイナス22.6%よいう大暴落が発生したのです。
なぜブラックマンデーが起きたのかは様々な意見がありますが、根底にはドル安への警戒心が強まったことが要因としてあります。当時のFRBグリーンスパン議長はブラックマンデーの少し前の87年9月5日に公定歩合を5.5%から6.0%へと金利を引き上げました。FRB側は景気の過熱を抑えることが目的であったものの、これを投資家はドル安阻止するための対策と受け取りました。それに加えてブラックマンデー発生5日前に発表された米国の9月貿易収支が当時の史上最大の赤字であったことから、ドル安への期待が膨張し、投資家のドル売りがさらなる売りを呼ぶ悪循環を引き起こしたのです。
とはいえFRBが世界の主要な中央銀行などと会談して各国に金利引き下げを要請するなどの強力によって、この歴史的な危機は素早く解消されます。結果的に87年末のダウ工業平均株価はブラックマンデー後の最安値から200ポイント以上高い状態まで回復しています。
ところが、このブラックマンデー解消にあたり日本には厄介な問題が引き起こされることになります。なぜならFRBが金融危機に対応するために日本などの中央銀行に対して金融緩和策を実施するように要求していたからです。
日本のバブル経済と崩壊
ブラックマンデーの直前の日本経済は内需が力強く回復しており、日銀は金利引き上げを検討していました。ところが日銀が金利引き上げを検討している最中にブラックマンデーが発生し、国際協調する形で利上げ実施ができなくなったのです。
この結果、引き起こされたのが「バブル」といわれる空前の株価上昇が誘発されることになります。また株式市場の好況で増資が容易くなると、不動産価格の高騰がものすごいスピードで拡大していきました。こうして需要と供給のバランスが崩れていき、日本のバブル経済は崩壊することになります。
これは結果論となりますが、少なくとも利上げを検討していた1987年時点で利上げを実施していれば、バブルが起きなかった確率が高いともいえるでしょう。
また日本のバブル崩壊が現在でも日本を苦しめる要因である「デフレ・マインド」へと繋がっており、これが日本の消費マインドにも少なからず影響を与えています。
おわりに -2023年の今から振り返る、日本と世界経済にとっての教訓とは-
日本経済がバブル崩壊から長期不況になった要因として、FRBが分析した報告書を出しています。
そのなかでも注目すべきは「日本のバブルが崩壊した90年代初頭に日銀が公定歩合を2%以上引き下げていたら、ここまで日本は長い不況に見舞われなかった」というものです。
たとえばインフレによって物価が高騰している場合は金融引き締め策を実施することで加熱した消費マインドを冷やすことが可能です。しかし、1度染み付いたデフレ・マインドを改善することは困難であるということを報告書は分析しています。
日銀が公定歩合を引き下げたのはバブル崩壊から1年半後のことですが、なぜここまで遅れたのかというと、多くの経済学者が日本にデフレの経験がなかったことを指摘しています。
また同時期に湾岸戦争が発生し原油価格が上昇したことも利下げを渋った要因ともいわれています。
いずれにせよ、ブラックマンデーから日本のバブル崩壊によって引き起こされた私たち日本人のデフレマインドについて、しっかりと要因を整理して課題を明確にすること。
これが2023年に生きる私たちにとって大きな教訓として今後役立てることではないでしょうか。
今回の「再発見!金融経済アルキ帖」はこれでおわりです。
次回もぜひよろしくお願い致します!
文/鈴木林太郎