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ネットがざわついた!大河ドラマ「どうする家康」の於大の方ってどんな人?

2023.02.18

「(妻子の命など)つまらぬことです」「妻はまた娶ればよい」

大河ドラマの主人公にあるまじきヘタレかつ優柔不断なキャラが話題の「どうする家康」。ほかにも従来のイメージを覆すキャラ設定は多い。秀吉の最初の妻・瀬名(有村架純)は天真爛漫でかわいらしいキャラに描かれているが、過去の大河では、美しいがプライドが高いトラブルメーカーの悪女として描かれることが多かった。ちなみに1983年の大河ドラマ「徳川家康」では池上季実子が、2017年の「おんな城主直虎」では菜々緒が、瀬名役を演じている。

松嶋菜々子演じる家康の母・於大の方(おだいのかた)も従来は、戦乱に翻弄された薄幸なイメージが強く、過去の大河ドラマでは、栗原小巻大竹しのぶが演じている。だが今回のドラマでは明るくお茶目でやや強引という、現代女性に近いキャラで登場し、第3話では、3歳で離別した元康(家康)と16年ぶりの再会だというのに、人質にとられている秀吉の愛妻・瀬名と幼い子を見捨てて信長に寝返るよう詰め寄るような、冷徹な一面を見せている。

「主君たる者、家臣と国のためならば己の妻や子ごとき平気で打ち捨てなされ!」と言い放つ於大の方に、ネットも震撼。「悪魔のささやき」とおののく声もあれば「よく考えたらあれが戦国のスタンダードであり間違ってない」と納得する声や、「女傑」と讃える声も。

では実際の於大の方は、どういう女性だったのだろうか。

14歳で政略結婚、15歳で竹千代(家康)を生み、3年後に離別

於大の方は享禄元年(1528)、三河刈屋城主である水野忠政の娘として生まれ、天文10年(1541)、14歳で結婚。相手は当時三河で勢力を振るっていた松平清康の息子で、当時16歳だった岡崎城主・松平広忠だった。翌年15歳で男子を出産。これが竹千代で、後の徳川家康となる。

「14歳で結婚」と聞くと驚くが、当時の武士の娘の婚姻はあくまでも権力の取引の道具であって、ごく通常のことだった。そのため政局が変わると結婚生活も簡単に終わる。父の死後に家督を継いだ於大の兄・信元(寺島進)が、天文13年(1544年)に松平氏の主君・今川氏(野村萬斎)と絶縁。さらに今川氏の敵方である織田氏に従ったため、今川氏との関係を慮った広忠が、於大の方を離縁する。

その結果、まだ3歳だった竹千代が織田家の人質として引き取られ、於大の方は、実家の三河国刈谷城(現刈谷市)近くの椎の木屋敷で暮らす。そしてその翌年には早くも、知多郡阿古居城の城主と再婚。

▲於大の方が居住していた 「椎の木屋敷跡」(愛知県刈谷市)の銅像

19歳までに、結婚、出産、離婚、子との離別、再婚と、まるでジェットコースターのような人生。だが再婚の夫である久松俊勝(リリー・フランキー)との間に3男3女をもうけているので、二度目の夫婦生活は円満で幸せだったのだろう。

離れて暮らしても、息子を思い続けた

物心ついた甘えたい盛りの時に母親と引き離され、母恋の想いを抱いて成長したことが、後の秀吉の女性観に大きく影響を与えたといわれている。人質となって離れて暮らしても竹千代が母親への思慕を抱き続けたのは、於大の方が常に衣服や菓子を贈り、音信を絶やすことがなかったからだ。

2020年に放映された「麒麟が来る」では、松本若菜演じる於大の方が桶狭間の戦の直前に書いた手紙を家康(風間俊介)が読む切ないシーンがある。「十六年間離れていて、もはやお前の顔もわからなくなった愚かな母だが、お前が戦で命を落とせば身も世もなく泣くだろう」という手紙だった。

家康も生母のこうした気持ちを忘れることなく、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで天下をとった後は、於大の方の夫の俊勝と3人の息子を家臣とし、於大を母として迎えた。

▲JR静岡駅北口広場内の竹千代の銅像

嫁との仲は微妙だった!?

あくまでも「一説では」だが、於大の方は、最初の離婚の原因となり、わが子を奪われる原因となった今川家を、後々まで相当恨んでいたという。家康の正室の瀬名は、今川義元の姪であり、そのために快く思ってなかったという説も。その根拠となっているのが、瀬名は家康の住む岡崎城ではなく城外の「築山」という場所に屋敷を与えられていたこと。瀬名を疎ましく思う於大の方が、顔を合わせたくないのでこの屋敷を与えたというのだ(すでに瀬名と離婚していたので別居していたという見方もある)。

家康が、於大の方の兄を謀殺。ショックで夫が出奔

天正3年12月(1576年1月)、於大の兄の水野信元が、家康の家臣の石川数正(松重豊)らによって謀殺されるというショッキングな事件が起こる。これは、密告によって信元の謀反を疑った織田信長(岡田准一)の命令によるものだった。ちなみに実は信長は「殺せ」とまでは言ってなかったが、義兄風を吹かせる信元を嫌っていた家康が信長のせいにして殺したという説も。また後年、信元の謀反は信長の誤解だったことが判明している。

信元を岡崎に呼び寄せるために利用したのは、何も知らなかった於大の方の夫の俊勝。俊勝は信元の死にショックを受けると同時に責任を感じ、家康を恨んで出奔。最終的には隠退してしまう。兄と夫を(実質)失うことになった於大の方の怒りは、家康の家臣の石川数正に向かった。その石川数正が仕えていたのが、瀬名親子。

天正6(1579)年には、信長の命を受けた家康が、瀬名と嫡男をやむなく殺害するというまたしても衝撃的な事件も起こる。その背景にもまた諸説があるが、一節には瀬名と石川数正を憎む於大の方の意図が関わっていたのではないかという怖い説も…。また家康と豊臣秀吉(ムロツヨシ)が対立した後の天正13(1585)年に、石川数正が秀吉に寝返った一件にもまた、於大が関与していたとする説がある。政略結婚に翻弄された人生のように見えるが、ただ翻弄されただけでなく、強い意志で家康の政治にさまざまな影響を与えていたのは事実のようだ。

夫が没した後は出家、昨年が420回忌

夫の久松俊勝逝去の後は髪をおろし「傳通院」と号した。家康の天下統一を見て、慶長7年(1602)8月29日、家康の滞在する伏見城で逝去した。2022年10月15日には、於大の方菩提寺・小石川 伝通院にて、「家康・生母 於大の方(伝通院)様420回忌記念法要」が実施されている。

取材・文/桑原恵美子
参考資料/伝通院公式サイト「どうする家康<徳川家康と家臣団たちの時代>」.(NHK出版)

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