映画『宮松と山下』は「ピタゴラスイッチ」を手がけた佐藤雅彦を含む3人の監督集団「5月」による初長編作品で、サン・セバスチャン国際映画祭New Directors部門に正式招待された。主人公は端役専門のエキストラ俳優の宮松。彼には過去の記憶がなかった…というストーリー。それは、真に新しいとは何か? そんなことを考えさせる、新たな映像体験をもたらす。
3人からなる監督集団「5月」の初長編作品
屋根の上、濃いグレーの瓦が続く甍(いらか)の波波波。さまざまな切り取られ方をするその曲線のつらなりを眺めるうち、その画面が、波型の曲線で描かれたデザイン画のように思えてくる。ああなんだかキレイだな…、そんなことを思っていると、カメラはひとりの侍の後姿を映し出す。
ん? 時代劇?
さささっと数名の浪人がその前に立ちはだかり、侍とスピーディな殺陣を繰り広げる。やがて、「あぁ…」。致命傷を受けた浪人のひとりが、やや大げさな動きで絶命する。しばらくの沈黙のあと、死んだはずの浪人はむくっと起き上がって無表情に歩き出す。
そうしてすげ笠と蓑(みの)を身につけた別人の仕様で、次の撮影へ。そこでズームされる浪人の横顔、彼こそがこの映画の主人公である宮松。なるほど彼は斬られ役の大部屋役者、エキストラということか。こうして映画は始まる。
この映画は、監督集団「5月」による初長編作品。ひとりは、「スコーン」「ドンタコス」「ポリンキー」「バザールでござーる」、「だんご3兄弟」、そして「ピタゴラスイッチ」と、CMや童謡やEテレの教育番組で、やたらとセンスを感じさせる作品を発表してきた佐藤雅彦。
「5月」は、東京藝術大学大学院佐藤雅彦研究室から生まれた映画制作プロジェクトとして活動を開始し、2本の短編映画が、カンヌ国際映画祭短編コンペティション部門から正式招待された。残る二人、まだ30代の関友太郎も平瀬謙太朗もそれぞれに映像表現の新たな才能として注目される存在でもある(平瀬は川村元気にサン・セバスチャン国際映画祭最優秀監督賞をもたらした『百花』で共同脚本にクレジットされている)。
……とここまで説明してきて、そんな成り立ちの映画監督っていままでにいたか?と思えてくる。脚本も3人で書くらしい。そうして掲げるのは「手法がテーマを担う」という姿勢。それどういうこと?と思うも、その言葉はまったく大げさではなく、まして小難しくもなく、とても洗練されたやり方で、その言葉通りの映画を構築してみせる。それが『宮松と山下』なのである。
映画を終始覆う、異様な緊張感の正体
まずは先に書いた冒頭の数分で、映画にみなぎる異様な緊迫感におののく。よく考えたら時代劇の殺陣なんて何百回と観てきたし、主人公がエキストラであることを説明しているだけともいえるのに。
その後も映像でもセリフでも演技でも、親切な説明はなし。それでいて時折、現代音楽みたいな不穏な音が流れて画面の緊張感はさらに上がる。それでまずは前半、主人公の宮松はつまらなそうに、でもきちんと仕事をしながら日々を生きている。特に無駄口も叩かないので、観客はそれを演じる香川照之の、強烈な磁力を持った演技を凝視することになる。
宮松は端役専門のエキストラ俳優なので、時代劇から現代モノまで、浪人からサラリーマンと毎日、いや時には分単位でさまざまな役を演じる。映画はそんな宮松が俳優としてカメラ前に立つ時間と、素の自分としての時間を、特に説明も区別もなくスッと移行していく。その日の仕事を終えていつもの居酒屋で一人酒、かと思いきや背後で飲んでいたサラリーマン風の男二人が突然に立ち上がり、拳銃を宮松に向けてぶっ放す、とか。え?え?え? これも撮影!? 観客は何者でもない宮松の、生きる手ごたえのない孤独な日々を体感し、その危うい精神状態に同化していく。
やがて、宮松は記憶に問題を抱えていることもわかる。そこから映画は過去へさかのぼるのだが、とにかくエピソードのひとつひとつ、シーンのどれもがやたらに濃密。まるでシーンのいくつかをつなげただけで、完成度の高い短編映画になりそうだ。宮松を知る人間の口から時折語られる謎めいた言葉、奇妙な違和感をもたらす映像、いったいどういうこと? 観客は宮松と一緒に戸惑い、混乱し、それが物語への吸引力となる。
宮松はそうして自分の過去を知る人間の語る言葉で、自分のことを知っていく。それはまるで、他人の人生を聞くようにも響く。ここでも彼は自分の人生を自分の足で生きていないような、ただ求められるものをなるべく正確に埋めようとしているだけのような感覚を覚える。
それはまさに、今を生きる多くの人が覚える感覚に近い気もする。なるほどそれを描こうとした映画か、などと納得しそうになる。でも監督は「まず映像的な手法や表現が先にあり、後からテーマを見出していく」という。
たとえば宮松はエキストラの仕事では食べていけず、ロープウェイの維持管理の仕事を掛け持ちしている。それはちょうど、宙ぶらりんな彼の心持を表すメタファーとして機能しているように思える。でもじつはまずロープウェイを正面から捉えた画を思いつき、その映像から宮松がそこで働いているというアイデアが生まれたらしい。
それで冒頭、例の「甍の波波波」を思い出す。その映像は確かに隙のない、デザインされた画面の連続として、映画の冒頭に高い緊張感をもたらすことに成功している。それが何かのメタファーかもしれないしそうでないかもしれない、それ以前に。
またごくフツーの会話にさらっと入った謎めいた言葉、奇妙に違和感のある映像、ショートホープや野球のグローブなどの小物使い。ただ引っ掛かりがあるだけかも?と思わせるようなセリフや映像が、いやこれはやっぱり真実へのカギに違いない…と思わせて、画面を覆う緊張感はゆるむということがない。
俳優たちの研ぎ澄まされた表現
そんな異様な緊張感を、宮松を演じる香川照之はちょっと信じられない域にまで引き上げている。主演俳優の気配を消して周囲のエキストラの中に埋もれたり、それらしく大げさな芝居をしたり。
宮松が抱く奇妙な違和感を、セリフではなく本当に表情だけで、ほんの少しの頬の痙攣で、まなざしから光を次第になくしていくことで、小さな喜びをひっそり浮かべることで、表現していく。タバコを吸いながら小さく困惑していたのが…あ。いま、あることに気づいたな、という、表面には一ミリも変化のない状態で、心の動きを緻密に表現する。こんなことを、さもさらりとやってのけるのが香川照之という役者なのだと改めて思う。
その他、映画の前半と後半をつなぐ重要な役回りを今回も異様なナチュラルさで構築する尾美としのり、やつれた表情にかすかな色気を漂わせてぞくっとさせる中越典子、心のこもらない笑顔をやらせたら日本一(?)の津田寛治と、マジな実力者たちが、きっと異様にクリエイティブだったはずの現場に触発されて、いつにも増して研ぎ澄まされた表現をこれでもか!とやりきっている。すべてがハイレベルだ。
これだけたくさんの映画がつくられて、もう誰も、そこに新しいなにかなんて期待してないんじゃないかと思うところがあった。でもそうではなかった。新しさは、いつでも生まれえる。真にオリジナルであることを突き詰めると、新しい!としかいえない感覚がもたらされる。主演の香川がいうように「これは世界の最先端だ」という確かな手ごたえが残った。
『宮松と山下』(配給:ビターズ・エンド
●監督・脚本・編集:関友太郎 平瀬謙太朗 佐藤雅彦
●出演:香川照之 津田寛治 尾美としのり 野波麻帆 大鶴義丹 諏訪太朗 尾上寛之 黒田大輔 中越典子
●2022年11月18日~新宿武蔵野館、渋谷シネクイント、シネスイッチ銀座ほか全国公開
https://bitters.co.jp/miyamatsu_yamashita/
©2022『宮松と山下』製作委員会
取材・文/浅見祥子