いつもクールなポーカーフェイスを決め込んでいたいものだが、今を生きる者として時にはどうしたって感情が表に出てしまうこともある。
それが人を不快な思いにさせる場合もあるのだとは思うし、もしそうなれば運が悪かったと諦めるしかない。願わくばその感情表現が微妙で曖昧なものであってほしいものだが……。
“顔に出る”タイプは機会損失しやすい!?
仕事終わりにみんなで「ちょっと一杯」してきたに違いないスーツ姿の中年男性のグループとすれ違う。歩きながら楽しそうに談笑していてなによりである。個人的にはこのくらいの人数で飲むことなどそういえば久しくなかった。
所用を終えて御徒町駅界隈を歩いていた。夜8時半になろうとしている。電車で帰る前にささやかな「ちょっと一杯」をしてみようか。春日通りを渡る横断歩道の前で信号を待つ。
もちろん自分から進んで飲み会などの集まりに加わることはないのだが、誘われることもめっきり少なくなった。まぁこのコロナ禍もあるとは思う。
仕事上のつき合いがあまり広がらない理由は自分でもある程度はわかっている。幸か不幸かといえばこの場合は不幸なことに、わりと感情が表情などに出てしまうタイプだからだ。つまり“顔に出る”のだ。
ずいぶん前の話ではあるが、その当時一緒に仕事をし始めたばかりの人物と仕事の打ち合わせをしたのだが、ありがたいことに今後の仕事の量を増やす打診をされたことがあった。
フリーの身としては二つ返事で引き受けなければならないのだが、ちょうどその時には別の仕事にかなり多くの時間を取られていたこともあって快諾することはできず、前向きに検討するという生返事をしてしまった。自分ではわからないがきっと表情のほうもなかなか微妙なものであったに違いない。つまり“顔に出る”リアクションであった可能性が高いのだ。
そんなことがあった2、3ヵ月後には残念ながらその人物とそれ以降は仕事をすることがなくなってしまった。仕事上でチャンスを1つ失った一幕である。
機会損失を回避するためにこの時に何かできることがあったのか振り返って考えてみても、おおむね不可避であったように思える。個人で仕事をしている身とすれば「こちらを立てればあちらが立たず」というジレンマはつきものだ。そして不可避であったと思える最大のポイントは、自分の気持ちに嘘をついたわけではないという点だ。自分の本心が微妙なかたちであれ外にあらわれて“顔に出る”のだから仕方がない。
損をしても本音でしか生きられない人がいる!?
信号が変わり横断歩道を渡る。街は賑わっていて車の通行も多い。まだまだコロナ禍は予断を許さないがこうして街に人が戻ってきたことはいいことに決まっている。
自分のように本心が表情に出てしまいやすい者がいる一方で、ポーカーフェイスを続けるのが苦にならないという者もいるのだろう。そうしたことはやっぱりそれぞれの個人の特性なのだろうか。最近の研究でも内面で感じていることを外に表現し行動することは、その個人の心理的特性であることを示していて興味深い。そうした“顔に出る”個人はそれで損をすることがわかっていても感情を表に出しているというのである。
真正性(authenticity)は、コストと利益を伴う多次元プロセスです。
最近の研究では、真正性プロセスが不明瞭になっています。
リアルな状態(realness)は、扱いやすく、測定可能で真正性の中核となる要素です。
本物であることは順応性がありますが、常に快適であるとは限りません。
※「ScienceDirect」より引用
カリフォルニア大学デービス校をはじめとする合同研究チームが2021年3月に「Journal of Research in Personality」で発表した研究では、本心をあらわにし、さらに本心に則って行動することは、その個人の心理学的特性であることを報告している。つまり本音でしか生きられない人がいるということになる。
自分の気持ちを偽ることなく吐露し、本心に則って行動することはリアルな状態(realness)であり、健全でメンタルの健康にも寄与するものであるとされている。しかし子どもであればまだしも、率直でストレートな感情表現は時には反感や恨みを買ったりするリスクもある。
本音を口にして失敗した体験などを通じて、我々は感情をストレートに表現することのリスクを学び、気遣いやある種の処世術を会得していくことになるが、とすればこのリアルな状態とは、同じ個人の中で時間の経過とともに変化するものなのだろうか。それとも永続的で安定した行動傾向なのか。
この問題に取り組むために、研究チームは、大学生と労働者、さらに「Amazon Mechanical Turk(アマゾン・メカニカルターク)」の大規模なサンプル、およびドイツの一般人からの小規模なサンプルを含む一連の9つの研究を考案して実施した。
データを分析した結果、リアルな状態は明確な個人的特徴と見なすことができるという考えが支持されることになった。内面で感じていることを外にあらわし、それに則って行動することは比較的一貫した心理的傾向であるというのである。
たとえば「本物の友人」と「礼儀正しい友人」を比較するように求められたとき、“顔に出る”タイプの参加者は「本物の友人」も「礼儀正しい友人」も同じように好感を持ったものの、「本物の友人」は「礼儀正しい友人」よりも自分に同意的ではないと評価したのだ。つまりリアルで本物の親友は、時には不快な存在になり得ることを織り込んでいるのである。
過去の仕事上の機会損失のケースを思い返してみて不可避であったと思うのも、そこにリスクが織り込まれていることを納得しているからということにもなる。夢物語の世界で生きているわけではないない以上、自分を偽ることなく行動しようとすればそこにリスクがあることは承知のうえということになるのだろう。
魚介の肴が美味しい立ち飲み屋で「ちょっと一杯」
横断歩道を渡り終えてからは、そのまま真っすぐにガード下に沿って進む。右側には“国民的”ファッションブランドの店舗が入った商業ビルがある。そういえばこの冬にアウターを買うかどうか迷っているところではあった。今年ももうすぐ寒くなってくるのだろう。
左のガード下にはカフェや居酒屋、立ち食いそば屋が並んでいて、その先には魚介がメインの立ち飲み屋がある。これまでにも何度か入ったことのあるお店で、ガード下のもう少し離れた場所にあった頃からたまに利用していたお気に入りの場所だ。久しぶりに入ることにしよう。
明るくてこざっぱりした店内に入る。完全セルフサービスのシステムで、まずはお店の奥のカウンターに並んで置かれたパックに入った刺身や総菜をお酒と共に注文してその場で支払う。
肴は「マグロぶつ」に「アスパラベーコン」を選び、まずはウイスキーハイボールをお願いした。アスパラベーコンはレンジで温めてくれる。
でははじめることにしよう。刺身が入ったパックのフタに醤油を入れ、刺身についているワサビの小袋の封を切って絞り出した中身を容器の端に盛っておくと準備OKだ。
ハイボールで舌を湿らせてからマグロぶつを一切れ口に運んだ。何もいうことはない。お酒もマグロも美味しいが、立ち飲み屋で飲む解放感もまた立派な肴である。酒と肴と共に、今が自由の身であることの幸せを噛みしめたい。
今はそれほどビールを飲まなくなってきているのだが、数年前までの自分は完全に“ビール党”であった。ひと昔前によく一緒に外で飲んでいた友人からその日最初のビールをすごく美味そうに飲んでいると指摘されたことがあったことを思い出す。お酒を飲んでいる時の自分の顔を見たことはないので返す言葉もないが、それもまた自分が“顔に出る”タイプの人間であることの証左になるだろうか。
そういえば今日乗った電車でドアの脇に立っていたのだが、とある駅で発車間際のホームで女性が自分が立っているドアに駆け寄ってきた。しかし残念なことに寸でのところでドアが閉まりその女性は乗ることはできなかったのだ。
走り出した電車を見送る女性の顔を至近距離から目撃してしまったのだが、マスク越しにも狼狽の表情がはっきりと見て取れた。この女性も思いっきり“顔に出る”タイプの人なのだ。
電車の駅のような人が集まる場所では特にポーカーフェイスを決め込みたいものだが、そのような事態に直面するなど時には生々しい感情が表出することもあるだろう。自分の気持ちを偽ることなく、しかしその一方でむやみ表情に出さないことが成熟し、洗練された大人ということになるのだろうか。大人になるのはかくも難しいことなのだと、いくつになっても思い知らされる次第だ。
文/仲田しんじ