車酔いという言葉を聞くと、幼稚園や小学校の遠足バスを思い浮かべる人は多いはず。大人になったらもう縁がない症状……と思いきや、自動車の進化により、大人にも「車酔い」が大きな課題として浮上してきた。
自動運転車両の登場で、これまでは車酔いとあまり縁のなかった運転者にも、車酔いが増加すると考えられている。運転のかたわら、スマホやPCの操作ができるようになり、車の揺れで酔ってしまうからだ。車酔い低減技術に対する将来的な需要は、大きかったのである。
そんな中、業界で先駆けて「車酔い防止シート」を開発したのが、世界トップのばねメーカー日本発条株式会社(通称ニッパツ、本社横浜市金沢区、社長茅本隆司氏)である。長年、自動車用シートを開発してきたこともあり、シートにより乗員の動きを抑えることで車酔いを低減できることが分かっていた。とはいえ、これまでなかった商品をゼロから立ち上げた道のりは、険しかった。
車酔いのメカニズムは目と前庭器官のズレから
シート生産本部開発部主管加藤和人さんは、車酔いが起きるメカニズムについて解説してくれた。
「車に乗っている人は主に視覚や前庭(ぜんてい)器官などの情報から、身体の傾きや動きを脳で知覚しています。前庭(ぜんてい)器官というのは、脊椎動物の耳にあって、平衡感覚を司り、位置情報を脳に伝える器官です。この器官の中でも、たとえば三半規管は回転の動き、耳石器は直線の動きを、それぞれ検知します。
車が走っている時は、乗っている人の「視覚」と「前庭(ぜんてい)器官」の情報にズレが生じて酔いやすくなるのです。
特にカーブをぐ~っと曲がったり、加速・減速の時に頭が傾くと頭の前後・左右に大きな合成加速度が作用してしまい、視覚と前庭(ぜんてい)器官からの情報のズレは大きくなって、車酔いの症状が出てしまうのです。
逆に言えば、頭の動きを制御することで、車酔いを防ぐことができます」
過去にも車酔い防止方法には視覚からのアプローチや、自動車自体の揺れを無くすような構造上のアプローチなど、いろいろな車酔い防止方法があった。しかし、最も効果的なのが、感覚器官の集中している「頭部の支え」だった。ニッパツでは2018年度から本格的な開発をスタートさせた。
繰り返し行ったブレーンストーミングが突破口に
最も苦労した点について、シート生産本部開発部主任・鈴木浩介さんに聞いてみた。
「視覚など人間の頭にセンサーがあるので、シートで頭を支えれば良いということがわかりましたが、シートを使って頭のどこをどう支えれば車酔いが防げるかということは全く手探りの状態でした。
シートの設計や構造で、具体的に頭のどの部分を支えるか、試作や評価・立案を繰り返しました。頭を支えるのが効果的であっても、ガチガチに固定して動かないようにするわけにもいきません」と当時を振り返る。
突破口になったのは繰り返し実施されていたブレーンストーミングだった。これは会議の参加者が、自由にアイデアを出して発想を膨らませる会議の手法で、他部門の社員も参加していろいろな意見を出し合った。
メンバーを変えながら繰り返し実施していたが、なかなか良いアイデアが出てこない。でも、会議で考えている時、皆、決まって腕を上げて後頭骨を手で押さえるポーズをとっていた。
「どうしたらいいのか……うーん、あ、このポーズ、こうやって頭を支えると安定するよね、何かちょっといける?という感じで後頭骨を支えるやり方に焦点を当てた開発が進んでいきました」と鈴木さん。
「車酔い」を体験する苦しい実験
一方、シート生産本部開発部本田親典さんは実験を担当し、車両のコーナリングGや加減速Gを再現するために開発・導入した台上設備や実際の車両を使用して、性能を確かめる試験を繰り返した。
「試作品の評価は会社の中で協力してくれる人をボランティアで募集して乗車してもらい、きちんとこちらの狙った動きをしてくれるかを試験していきました。
社内の倫理委員会の承認を得て、安全性に十分に配慮し参加者の同意を得た上で実験を行ったのですが、車酔いの程度を評価する試験のため、どうしても、気分が悪くなる人が生じてしまいます。
実験途中で『もうダメ』と言われたり、私自身も繰り返し乗車して何十回と吐き気を経験しました。協力してくれた多くの人のためにも、絶対に苦労が無駄にならないようにしなければ、と、思いました」と、本田さん。苦しい実験の末、車酔い防止シートが完成した。
開発がスピーディーに進んだ理由の一つに、コロナ禍の影響もあった。社員の出張が減り、社有車の空きが生じ,車両走行による評価が頻繁に実施できたのである。
完成させた車酔い防止シートは、車酔いに至るまでの時間は従来の3倍に延びて、PCやスマホの動画も見やすくなった。
さらにスマホ利用時の車酔い防止のためにハンドサポート機能を付加させた、より高機能の製品へと拡大している。アームレスト上のひじを支えることに加え、スマホを持つ手を支えるハンドサポートを装着することで、乗っている人の視線が窓から見える外界と近い高さになることで周辺視野が目に入ることが車酔い低減につながる。それだけでなく手の揺れを抑えることにより視覚情報と揺れを感知する感覚の混乱を低減することも、車酔い防止の更なる向上につながっている。
ハンドサポート付きシートを利用すると、車酔いするまでの時間がサポートの無い自動車に比べて2倍に延長された。
現在、シートには複数のOEMが関心を寄せてきている段階で、さらに製品化に向けた開発としてコスト・重量の低減やデザイン自由度の拡大、海外向けに各国法規適合性の確認なども行っている。私たちがこのシートに座れる日はそう遠くなさそうだ。
自動車に求める機能をゼロから生み出し、見事に完成させたニッパツ。発想の難しさや、実験の苦しさを経て、今、世界中からこの技術が注目されている。
文/柿川鮎子
編集/inox.