歩きながら胸に手を伸ばすと、ジャケットの胸ポケットに入れたはずのウレタンマスクがなくなっていた。どこかで落としてしまったようだ。こうした時のためにバッグの中に不織布のマスクを4、5枚常備している。そもそも部屋に戻れば1人では一生使い切れないほどのマスクがあり、我ながら失笑を禁じ得ない——。
買いだめしたマスクについて考えながら神田の街を歩く
決してモノをため込んだりはしないほうだと思っているが、それでも場合によってはある特定のモノを多めにストックしたりすることはある。その最たるものが今回のコロナ禍の中での不織布マスクだ。
部屋には不織布マスク50枚入りの箱が15箱くらいはある。今はウレタンマスクを洗濯しながら使っているし、そもそもしなくてもよい状況ではマスクはしていないので、この不織布マスクは自分1人では一生かかっても使い切れそうもない。
神田駅の南口界隈に着ていた。夜8時になろうとしている。部屋に戻って少しばかり作業が残っているが、午後から何も食べていないのでどこかで何か食べてから帰ることにしたい。
神田金物通りを進む。バッグの中から不織布マスクを1枚取り出して二つ折りにし、ジャケットの胸ポケットに差し込んだ。それほど人通りは多くないので、今はマスクをしなくてもいいだろう。
ご存知のように2020年年明けからのコロナ禍初期の頃、しばらくはマスクがなかなか手に入らず、自分も1、2ヵ月の間は入手することができなかった。当時は入手するにしても朝からドラッグストアの開店を待って並んだり、街中でイレギュラーに売られている高額なマスクを買ったりするしかなかったが、時間がなかったこともあり自分には無縁のことだった。
確か4月も後半になったくらいからようやくマスクが普通に手に入るようになり、その価格もどんどん下がっていったのを憶えている。自分もこの時期に新大久保の街中で中国製のありふれた不織布マスク50枚入りの箱を確か千円ほどで買った。そしてその後もマスクの価格はどんどん下がっていった。
その当時ようやくマスクが入手できてまずは一安心したのだが、その反動がきたということなのかもしれない。それからしばらくの間、街で安いマスクを見かけるとついつい無自覚に買ってしまうようになったのだ。そしていつの間にか15箱ほどのマスクに加えて、5、6枚入りのマスクが10包みほど部屋にたまったところで、異常な事態を認識してそれ以来買うのを止めたのである。
さらに一度ウレタンマスクの息のしやすさを味わってしまうともはや不織布マスクに戻ることはできず、部屋にストックされた大量の不織布マスクは、病院に行くときに使うぐらいで遅々として減ることがないのだ。
デジタルコンテンツをため込む“デジタルため込み”が今後問題化する!?
あらゆるモノをため込んで捨てられず、生活に支障をきたすようならそれは精神疾患の1つということになるだろう。持ち物を捨てることが困難で持ち物に埋め尽くされ生活の支障となる症状は「ホーディング障がい(hoarding disorder)」として定義され、日本語では「ためこみ症」と訳されるようだ。
そして最新の研究では、デジタルコンテンツをため込んでしまう「デジタルためこみ症」が今後ますます問題になる可能性が指摘されている。住んでいる場所にモノがたまるのは目に見えることなのでそのぶん対策がしやすいともいえるが、見た目上は分からないデジタルコンテンツのため込みは厄介なことになるのかもしれない。
データストレージのコストがゼロに近づくにつれて、個人はデジタル コンテンツ (電子メール、画像、ビデオ、ドキュメントなど) をこれまで以上に取得、共有、保存できるようになります。
この行動は、スマートフォン、ウェアラブル端末などの最新技術デバイスの入手可能性、手頃な価格、使いやすさ、ソーシャルメディアや通信アプリの急速な普及、デジタル化されたビジネスや個人的なやり取りの強化によって悪化しています。
その結果、大量のデジタル コンテンツを取得して蓄積する傾向が強まっています。この研究では、愛着理論とホーディング障がいの理論的基礎を利用して、デジタル コンテンツの破棄の困難さ、デジタルクラッター、デジタルコンテンツの頻繁な過度の取得などの特性が、デジタルためこみ症の兆候を示していると主張しています。
846人の回答者を対象に調査を実施し、マルチグループ分析を実施することにより、この調査ではデジタルため込みと不安との関連性に関する補強証拠が提供されます。
※「ScienceDirect」より引用
豪・サザンクロス大学とサザンクイーンズランド大学、米・アーカンソー大学の合同研究チームが2022年8月に「Information & Management」で発表した研究では、デジタルため込み(digital hoarding)の現象が現在急激に増えつつあり、今後大きな問題に発展する可能性を報告している。
846人の回答者を対象とした調査では、デジタルため込みがより高いレベルの不安につながる可能性があることがわかり、うつ病、不安、およびストレス尺度を使用して測定された不安レベルの37%は、デジタルため込みによって説明されるというのだ。
また女性は男性と比較して、デジタルため込みの悪影響を感じる可能性が27%高いことも示された。デジタルため込みが急激に増えているのは当然のことながら、昨今のデータストレージデバイスの数が増え、しかも大容量化していることにある。
デジタルため込みの原因は一にも二にも捨てられないという“不安感”から来ているのだが、管理することのできなくなったビッグデータはメンタルに悪影響を及ぼすばかりか、データの漏洩などのセキュリティの脆弱化にも通じている。ため込んでいるデジタルコンテンツが共有されていたデータだった場合、当人以外にも被害を及ぼす危険性をはらんでいるのだ。
自分の部屋にマスクが氾濫して迷惑するのは自分だけだが、デジタルため込み症の場合はそのコンテンツに関係している人々にも危害が及んでしまうリスクがあることにもなる。デジタルコンテンツのため込みに自覚的であらねばならないようだ。
溶岩プレートの上のミスジステーキを存分に楽しむ
通りを進むがオフィス街の色彩がどんどん濃くなっていき、飲食店は少なくなってきている。交差点を渡らずに引き返そうかという考えもよぎったが、ちょうど信号が青だったので横断歩道を渡って先に進んでみることにする。
もつ焼き居酒屋が見えてきたが残念ながら今は選択肢にはない。店を越えたところにある路地の左を見ると、赤い派手な看板のステーキ店があった。看板には店名の前に「溶岩ステーキ」のフレーズがある。展示物を見ると価格も安いことだし、手早く食事を済ませられそうだ。入ってみよう。
地下一階に通じる階段を降りて扉を開けると広々としたスペースが広がっている。入口で手指の消毒を済ませた後、少し進んだところにタッチパネル式の券売機があり、そこで注文することになる。券売機の背後にはセルフサービスで提供されているライスやスープのジャーが並んでいた。サラダも取り放題ということのようだ。
タッチパネルを操作して最も定番的なメニューであるミスジステーキの200gを選び紙幣を投入する。アルコールメニューもいろいろあって魅かれるものがあるのだが今回はやめておくことにした。
お店の人に食券を差し出すと共にカウンター席に案内され、足元のカゴに荷物を収めてからライスやサラダを取りにもう一度入口近くに行く。
このご時世なのでビニール手袋を手にはめてからライスやサラダ、スープをよそって自分の席に運ぶ。ライスには白米のほかに雑穀米もあり、サラダにはキャベツとニンジンの千切りに加えてマカロニもある。
取ってきたライスやサラダを運んできたところでステーキがやってきた。ひと塊が100gの肉が溶岩プレートの上に2つ乗っている。湯気を立てている肉塊はなかなかのボリュームだ。プレートが熱いうちにさっそくいただこう。
肉にナイフを入れると意外なほどに柔らかくサクッと切れる。カウンターの上にはいくつものステーキソースや調味料類が並んでいて、カットした肉をまずはオニオンソースをつけて口に運ぶ。柔らかい肉はいくらでも食べられそうだ。300gにしておいてもよかったかと思ったが、初訪問であるし今回はこれでいいだろう。もちろん追加オーダーもできる。
こうして外で美味しく夕食をいただいているわけだが、部屋の冷蔵庫にもそれなりに食料品の買い置きがあるので、実は外食ばかりしているわけにもいかなかったりする。少し前にスーパーで新たに置かれるようになったレトルトのサバ味噌煮を買ったのだが、従来のものよりも格段に消費期限が短くて焦った体験があった。
レトルト食品や缶詰は当然鮮度は落ちるが、何かの時にストックしておくと安心できるという保存食の側面もある。その商品についても購入後、まだまだ大丈夫だろうと高を括っていたところ、先日何気なく消費期限を確認したところ明日にまで迫っていたのだ。半ば慌ててその日に湯煎して“消費”したのだった。
もちろん生モノではないのだから消費期限を超えても少しばかりの猶予はあるとは思うが、マスクと同じように安心感を求めるあまり食べ物についても極力“ため込み”はしないようにしたいものだ。そういえば一昨日にスーパーで買った豚肉が冷蔵庫に眠っていることを、今こうして肉を食らいながら思い出してしまった——。
文/仲田しんじ