日本食が浸透しているタイ。特に首都バンコクでは日本各地の名物ラーメンからウナギ、割烹料理まであらゆる物が食べられます。そんな中、今度はOMAKASE(おまかせコース)を売り物にする店が続々とバンコクでオープンしており、その数は50店以上にのぼります。高級店では5,000~8,000バーツ(約19,000~30,400円)、最近では1,500~2,000バーツ(5,700円~7,600円)という“お手頃”な店もオープンしています。
タイの物価は日本と比べて3分の1程度、つまりOMAKASEを提供する高級店でのディナーは、日本の感覚でいえば6~9万円くらいということになります。ちなみに安食堂や屋台での1食は50バーツ(約190円)ほどです。
それなのにブームになっているのはなぜなのでしょうか? その理由に迫るため火つけ役の一つとなっている店を取材しました。
予約1年待ちの隠れ家的店
バンコク中心部にあるマハセット通りに、ひっそりと隠れ家的に店を構える『Fellets 』。カウンターのみのわずか9席。新規の客の場合、ディナーの予約は1年待ちになります。
「ウチの店の80%は常連客で彼らを優先しています。新しいお客様の場合、まずランチでお見えになって頂き、そこで予約を取って頂きます。電話などでの予約は受け付けていません」とランディ・ノプパーラさん。店の共同オーナー兼シェフです。
コースのみでランチは3,000バーツ(約11,400円)、ランディさん自身がカウンターに立つディナーは6,000バーツ(約22,800円)です。
週末のみ営業していた理由とは?
『Fellets 』がオープンしたのは10年前、バンコクでOMAKASEを始めた先駆けの店の一つです。当時、店は金曜から日曜のみ営業をしていました。その理由は……。
「信頼できるサプライヤーがいなかったので、毎週、日本へ飛んで築地で魚を買い付けていたんです」
そのため、当時は今よりコースの値段が高く1人1万バーツ(約38,000円)でした。OMAKASEという新しい試み、驚きの価格設定、ランディさん自身も不安があったといいます。
しかし、結果としては大成功。政治家や実業家、芸能人たちが足を運び、口コミで店の評判はどんどんと上がっていきました。
「この値段設定で来て頂けるのは富裕層のみ。そして、彼らは食に関しての情熱が強く、常に本物の素材や調理法、またそれにまつわる知識などを求めています。築地で仕入れる最高のネタを使い、料理を提供するだけでなく素材や料理方法などについてしっかり説明したことが良かったのでしょう」
和の鉄人に学んだシェフ
さて、このランディさんはどんな人物なのでしょうか?
「両親がレストラン経営をしていたので、物心ついた頃からキッチンに出入りしていました。とにかく料理が好きだったので、シェフたちが作るのを飽きずに観察していました」
高校卒業後、渡米。母の友人だった日本人オーナー経営の日本食レストランで働き始めます。そこで日本食に魅せられました。ワシントンDCのマンダリンホテルなどで働いた後、和食の鉄人として知られる森本正治シェフのナパヴァレーの店で修行を始めます。
「森本さんからは多くのことを学びました。一番教訓にしているのは、基本を大切にし、そこからブレないこと。創作料理を考案する時でもあくまで和を忘れない、それが今に生かされていると思います」
実はTV番組「料理の鉄人」はタイでも放送されていて、森本シェフはここでも有名。ランディさんの店の成功の一因となりました。
ランディさんの料理を少し紹介しましょう。現在、素材は豊洲市場から週に数回空輸されてくるものを使っています。鮪はもちろん天然もの、他の魚介類も最高級のものを使用。
「ビジネス・パートナーの持つ土地内に店舗を構えているから、この価格でやっていけます。そうでないと営業は成り立ちません(笑)」
前菜はヒラメの刺身にチェンマイ産のホワイトアスパラガス、プーケット島産の海ブドウ。豊洲で仕入れた山口県産の鮟肝をムースにしたソースで頂きます。濃厚なソースが淡泊なヒラメの味を引き立てています。ワサビは静岡県産の真妻をちゃんと鮫皮で下しています。
次は創作系の料理。北海道産のウニのピューレに黒酒を加え、そこにシマエビやカラスミ、べったら漬け、キャビアをトッピング。‟涼しい”茶碗蒸しのような一品を作れないかと思い、考案したそうです。
下田港で水揚げされた金目鯛は、刺身をくるくると巻いてバラのような美しい姿に。こうすることで独特な食感が生まれています。ツマのミョウガにも工夫を施してあります。
そして、いよいよ鮨。最初はコハダ。江戸前の仕事をしっかりしてある一貫で煮切りが塗ってあります。その後も大間の本マグロ、赤身の漬けなどが供されます。
ディナー全体で18~20品が提供されるということです。
ブームの背景にあるもの、その先は?
包丁を置いて貰ったランディさんにOMAKASEブームの背景を聞きました。
「インスタグラムなどソーシャルメディアの影響でしょう。日本食がポピュラーになっている中、そのハイエンドの形であるOMAKASEの飲食体験を写真に撮りネットに投稿する。そして、いいねをたくさん貰う。彼らは少なからず寿司にそれほど興味を持っている訳ではないのです」
タイでもSNSは大人気。いえ、日本人以上に好きと言えるかもしれません。人口6,980万人に対し、SNS利用者が4,860万人なのですから(2021年統計)。老いも若きもこぞって使っていることになります。https://datareportal.com/reports/digital-2021-thailand
例えば一緒に食事に行っても、料理が全て揃うまで待つことがよくあります。SNS投稿用のため、見栄えよい写真が欲しいからです。またコンサートやライブでミュージシャンたちを撮るだけでなく、彼らをバックに自撮りをするのもしばしば。なかなか日本人にはない発想です。
また、中間層の台頭で、富裕層のみの楽しみだったOMAKASEの裾野が広がったことも要因の一つです。
「そして、この流行に乗ったビジネス志向の店が乱立。それらの店はお皿に一度に盛るのではなく、一貫または一品ずつ出すことがOMAKASEだと勘違いしているのです」
ランディさんによれば、現在、バンコクでOMAKASEの店は50軒以上あるそうです。
「しかし、『銀座 鮨一』や『寿司雅人』など、本物の店はその内の5分の1に満たないでしょう。数年後にはブームも過ぎ、本物の店と本物の客だけが残ると思います」
『銀座 鮨一』は言わずと知れた東京に本店を構える名店、『寿司雅人』もニューヨークで修行を積んだ日本人シェフの店で共にタイ版ミシュランの星を獲得しています。
厳しい言葉ですが、ランディさん自身も「現状に甘んじることはしません。日々、勉強し自分の料理を進化させなければ顧客の信頼に応えることができないからです」というストイックな職人の姿勢を貫いています。
以上のように、今回のOMAKASEブームの背景は、富裕層に支えられて始まったものが、ソーシャルメディアを背景にどんどんと裾野を広げていったということになると思います。タイでのビジネスを考える際、大切なのがこの富裕層です。タイ国家統計局によると現在の平均月収は26,946バーツ(約10万2400円)と日本の半分以下です。しかし、この国は階級社会で富裕層は良い物にはお金を惜しみません。ここにタイでのビジネスの勝機が隠されているように思います。
梅本昌男
フリーライター。タイや東南アジア諸国の記事をJAL機内誌などの媒体に書く。単行本『タイとビジネスをするための鉄則55(アルク)』。NHKラジオへの出演や写真ACのモデルの仕事なども行っている。世界100ヵ国以上の現地在住日本人ライターの組織「海外書き人クラブ」会員。