寝不足は自己責任だ。昨晩、YouTubeの動画を見ていたらあっという間に時間が過ぎてしまい、睡眠時間が削られてしまった。翌日午前中から外出の予定があるのに夜更かししてしまったのは愚の骨頂だが、どうであれ視聴中の時の流れは早すぎた——。
若干の眠気を覚えながら王子駅前を歩く
思慮分別のない言動は多くの場合、非難されこそすれほめられるものではないだろう。自分の言動がどんな結果を生むのかよく考えてから行わなければならないのだ。
しかしその一方で災害からの避難など、考える前に身体を動かさなければならないケースもある。この場合はよく考えていたら最悪逃げ遅れてしまう。意識的に意思決定をする時間的余裕はないのだから、無意識の判断に身を任せるしかない。しかしこうしたことを無意識に判断してしまってよいものなのだろうか。
午前中からの各所をまわる雑事からようやく解放され、JR王子駅界隈を歩いていた。夜7時を過ぎている。どうであれもう本日は店仕舞いだ。まだそれほど遅くないし、どこかで「ちょっと一杯」やってから帰ることにしようか。北口のバスロータリー脇を進む。
しかしながら若干眠い。どこかで少し飲んだらハシゴ酒などせずに帰るべきだろう。眠いのは当然で、昨晩は部屋で仕事が終わってからそのままデスクでハイボールを飲みながらYouTubeの動画を深夜過ぎまで見てしまったのだ。
もちろんそんなに遅くまで見るつもりはなかったのだが、一編見た後に関連動画を続けて見てしまい、気づけば午前3時になろうとしていた。慌てて切り上げて歯を磨き、目覚ましをセットしてベッドに転がり就寝したのだが、当然のことながら寝不足である。
翌日には(その時点ですでに当日だが)午前中から外出する用事があると分かっていながら、思慮分別のない行動をしてしまったわけだが、アルコールが入っていたこともあり気の向くままに半ば無意識で動画を見続けていたことは否定できない。理性を失った無意識の行動とは恐ろしいものである。
駅前の交差点の赤信号を待つことにした。銀行とコンビニに挟まれた通りの先にあるマンションの1階にいくつかの飲食店が見える。いい感じの店があるだろうか。
信号を渡る。北本通りから枝分かれしている通りを歩く。前方にある大きなマンションの1階には回転寿司店や天丼店、ラーメン店があるようだ。回転寿司店の店先は灰皿が設置されているようで、2、3人が談笑をしながらタバコを吸っている。
ご存知のように街中でタバコを吸える場所はどんどん減っているので、当然だがタバコを吸っている人を見かけることもずいぶん少なくなってきた。まぁ残念ながら歩きタバコをする人をたまに見かけることはあるのだが…。
意思決定は0.5秒前に無意識が行っていた!?
タバコといえば少し前に高校野球の応援にきた議員が観客席で加熱式タバコを吸っていたことがニュースになった。当然だがたとえ一般人であったとしても許されざる行為であり、ましてや議員にはあるまじき行為である。喫煙のみならず飲酒をしていたことも明らかになっている。
しかし決して某議員を擁護するわけではないが、当人もこのような“愚行”を行いたくはなかっただろう。だがおそらくヘビースモーカーとしては、少し酔いが回った状態で周囲に直接の知り合いもいないことから、半ば無意識に手が動きタバコをくわえて吸ってしまったのだと理解することはできる。もちろん許されない行為ではあるが、この時の喫煙は無意識が為せる業であったのだろう。
最新の研究では、我々の意思決定は実は無意識のうちに行われていて、その約0.5秒後に意識化されているというから興味深い。我々の意識とは記憶システムから派生したものであるというのだ。
意識はもともとエピソード記憶システムの一部として発達したと主張します。さらに意識はその後、問題解決、抽象的思考、言語など、記憶自体とは直接関係のない他の機能を生み出すために採用されたと仮定します。
この理論は、他の理論ではうまく説明できない意識の遅い(反応)速度や事後の順序など、多くの現象と互換性があることを示唆しています。私たちの理論は、意図的な行動と意識全般を理解する上で深い意味を持つかもしれないと確信しています。
さらに、エピソード記憶とそれに関連する感覚記憶、作業記憶、意味記憶の記憶システムは、全体として、それらが一緒になって意識現象を引き起こすという点で、意識記憶システムと見なされるべきであると提案します。
※「LWW Journals」より引用
ボストン大学をはじめとする合同研究チームが2022年10月に「Cognitive and Behavioral Neurology」で発表した研究は、大胆な推論に基づいて我々の意識とは記憶システム(Memory System)の派生物であると主張している。
たとえば野球のバッターは投手の投げた球に対してバットを振るかどうか意識的に考えて判断しているわけではないのは明らかだ。バットを振るかどうかは無意識レベルの判断なのだが、振った後になってそれが正解だったのか失敗だったのを理解することはできる。そしてその経験を積むことで、どういう球をどのようにして打てばいいのかを無意識レベルで判断して動けるようになると(身体能力の問題を除き)徐々に打率が上がってくるのだろう。
研究チームによれば、バットを振ったか振らなかったか、その判断の意味を脳は0.5秒後に意識にのぼらせているという。我々が意識的に意思決定したと思えることでも、0.5秒前に無意識が行っているというのである。
研究チームによれば我々が記憶、特に個人が個別具体的に経験した出来事に関する記憶である「エピソード記憶」の能力を発達させてきたのは、過去の体験をより正確に思い出すことが一義的な理由ではなく、未来に柔軟に対処するための修正や追加が可能な“経験値”として発達してきたのだと説明している。そして記憶に基づいて将来に対処する営みが我々の“意識”であるというのだ。
理性を失ってYouTube動画に没入してしまったのも、おもわずタバコを口に運んでしまうのも、打席のバッターがバットをフルスイングするのも、研究チームによればわずかに先んじた無意識の判断ということになるようだ。
海鮮系居酒屋でアジとサバを味わう
回転寿司店を通り過ぎ、路地を進む。マンションの1階のこちらの面にもお店がいくつかある。居酒屋と中華料理店が並んでいるようだ。
居酒屋の店先の食品サンプルを見ると海鮮系のお店であることがわかる。赤い看板には「大衆居酒屋」の文字もある。なかなかよさそうなお店だ。入ってみよう。
店内はけっこう広い。テーブル席がメインだが、カウンターもあれば奥には座敷席もある。カウンターに案内されると思ったが、お店の人にテーブル席に促されて4人掛けの席に着く。お客の入りは6割程度といったところだろうか。ひとまずチューハイをお願いした。さっそく卓上のメニューを眺める。
隣のテーブルは老夫婦らしき方々と30代くらいの男女が話しながら休まずに飲んで食べていた。おそらく家族なのだろう。このマンションの住民であったとしてもおかしくはない。
チューハイとお通しの玉子焼きが届いたタイミングでアジの刺身とサバの塩焼きをお願いした。とりあえずこれで海鮮系の食欲は満たせるだろう。
ともあれチューハイのグラスを傾けてひと口飲む。意識が解放される瞬間だ。喫煙者ならここで無意識のうちにタバコを手に取ってしまいそうだが、まぁそもそもこの店は禁煙である。
玉子焼きを味わい、先にきた刺身を少しつまんでいると塩焼きもやってきた。
温かいうちに塩焼きをひと口をいただく。皮がパリパリに焼けていて身のほうには脂がのっていて何も言うことはない。焼魚は特に焼き方如何で美味しさが全然違ってくるものだ。最近食べていなかったが、たまにはランチでサバ塩焼き定食を食べたいと思わせてくれる美味しさだ。
刺身も焼魚も、意識的に食べようと思わなければなかなか食べられるものではない。
その一方で、例えばYouTubeの動画やネット配信の映画を観ながらポテトチップスなどのスナック菓子を食べていると、半分ぐらいで止めておくつもりがあっという間に1袋全部食べてしまっていたりもする。これは明らかに意識的なコントロールを外れた無意識の摂食行為ということになるだろう。袋を空にしてしまってから、自分でも全部食べてしまったことに気づくのである。
とすれば無意識とは我々の“敵”なのだろうか? 敵なのだとしてもそれは0.5秒、先行して意思決定の引き金になるのだとすればある意味ではお手上げである。
しかし日常のありふれた意思決定は0.5秒を争うほどシビアではない。たいていはじっくり考える時間的余裕があるだろうし、0.5秒前に誤った判断をしてもリカバリーできる方策も多くあるだろう。
アジとサバを味わってからまた別の肴を注文してみるか、今日はこれで終わるのかも自分の気持ちひとつである。しかし帰宅して後、YouTubeを見ることなくさっさと就寝することは気持ちの問題にはしないほうがいいだろう。だがそういう時に限って不思議と目が冴えてきたりもするのだが……。
文/仲田しんじ