望む未来があっても、何もしないでいればただの夢で終わってしまうだろう。一方で二度と味わいたくない失敗があっても、行動を変えなければそのうち同じ過ちを繰り返してしまう。しかしこの2つを同時に意識した時、人は重い腰を持ち上げることができるのかもしれない――。
安全を確認しながら1車線の道路を横断する
東京メトロ東西線を早稲田で降りて少し歩くことにした。地上に出ると快晴の空が広がっている。ちょうどお昼時でもあるし、どこかで何か食べてから帰ることにしよう。早稲田通りを高田馬場方向へ進む。
通りの一角で工事が行われている。前にこの近くに来た時も工事をしていたと思うが、この先もまだまだ長く続くのだろうか。工事現場の境目に立つ警備員の方が頻繁に左右を振り向いて歩行者の安全を確認していた。
交通事故が起きやすい場所があることは過去のデータから明らかだ。そういった場所には各種の標識が重点的に配置されていたり、監視カメラが設置されていたりするのだろう。
それでも不測の事態は起きる。また交通事故を起こしやすくなる新たな要因が見つかってもおかしくはない。過去のデータだけでは未来は完全には予測できない。
交差点で信号を渡らずに右折し、早稲田大学の南門に通じる通りを進む。車両は一方通行の1車線の道路だが、整備された歩道は案外広くて趣がある通りだ。
過去におかした間違いに気づき、その原因を特定して指摘することを「フィードバック(feed back)」と呼んだりもするが、その一方で望ましい未来にするために今何ができるのかを考える視点は「フィードフォワード(feed forward)」とも呼ばれている。おそらくどっちか一方だけでは不十分で、フィードバックとフィードフォワードの両方の視点があってこそ、より良い意思決定に繋がりそうである。
あまりほっつき歩いているわけにもいかない。どこか店を探そう。交差点では横断歩道を渡らなかったが、反対側の歩道に移った方がよさそうにも思えてくる。安全を確認して道路を渡ることにしようか。
前方のかなり遠くから自転車に乗ってこっちに向かってくる人がいるのに気づく。後ろを振り向くと都営バスが近づいてきていた。いったんバスに追い抜いかれるのを待つしかない。
バスを見送った後、当然だが自転車はたいぶ近づいてきている。後ろを見ると今度は乗用車がこっちに向かってきていた。自転車は近くに来ているが、車のほうはまだだいぶ離れているのでこのタイミングで道路を横断することにした。自転車が通り過ぎるのを待っていれば車が近づいてきてしまうからだ。
無事に通りを渡り反対側の歩道に移る。どうということもないことではあるが、考えてみれば安全を確認しながら道路を渡るという行為は認知科学的にはなかなか複雑なプロセスということになるのかもしれない。
そこそこ交通量のある道路を横断できるのはなぜか
ともあれ通りを先に進む。猛暑は終わったが澄み切った空の下ではまだまだ暑い。首筋が少し汗ばんできた。
自転車とすれ違い、その後すぐに背後から来た乗用車が走り去っていった。
AI(人工知能)による自動運転技術が着々と開発されているが、もしAIが歩行者の側になった場合、さっきの自分のように車が近づいてくる状況下で道路を横断できるのだろうか。
最新の研究で神経科学者は感覚と思考を結びつける脳のメカニズムが発見されたことが報告されている。フィードバック情報とフィードフォワード情報を統合して処理する脳の領域が特定されたのである。
フィードフォワードとフィードバックニューロン信号の統合は、新皮質の主要な機能です。
しかしこれらの情報ストリームが個々のニューロンによってどのように結合されるかについての洞察は限られています。
2色の光遺伝学的戦略を使用して、後頭頂皮質の第5層錐体ニューロンが、感覚入力とトップダウン信号を組み合わせて、単シナプス二重神経支配を受けることを発見しました。
第5層の錐体ニューロンのサブクラスは、これらのシナプスを異なる時間ダイナミクスで統合しました。
※「Neuron」より引用
カリフォルニア大学アーバイン校の研究チームが2022年8月に「Neuron」で発表した研究では、フィードフォワードとフィードバック情報ストリームを統合する脳の新皮質の領域を特定したことを報告している。この発見は最終的に特定の神経精神障害や脳損傷の治療を改善するのに役立つ可能性があるということだ。
フィードフォワード情報は脳の感覚系によって末梢(感覚器官)から新皮質の高次領域に中継している。次にこれらの高レベルの脳領域がフィードバック情報を送信して、感覚処理をわかりやすく調整している。この往復のコミュニケーションにより、脳は注意を払い、短期記憶を保持し、意思決定を行うことができる。
科学者たちはこのフィードフォワードとフィードバック情報ストリームが脳の新皮質のどの領域で統合されているのかをこれまで知らなかったのだが、今回の研究でそれが後頭頂皮質の第5層錐体ニューロン(layer 5 pyramidal neurons)で行われていることが突き止められたのだ。
研究チームは我々が交通量の多い道路を横断したい場合、フィードフォワード情報ストリームとフィードバック情報ストリームが常に連携していなければ、完全に車の通行がなくなるまではいつ渡るか判断できず、左右からくる車をずっとキョロキョロと見続けることになると説明している。
第5層錐体ニューロンの働きがなければ、先ほどの状況では自分は車と自転車が完全に走り去るまでは道路を渡れなかったということになる。待っている間に別の車や自転車が来た場合、ずっと待ち続けることにもなってしまう。道を渡るといったどうということもない行動の背後にある優れた脳の働きには驚きをもって感謝すべきなのかもしれない。
学生街の老舗食堂で刺身定食を味わう
通りを進むと左手の雑居ビルの半地下階に食堂があるのを認める。店の前の歩道に置かれた黒板にはランチメニューが記されていた。刺身定食や焼魚定食、煮魚定食がメインのようで、うな丼や鶏そぼろ丼もあるようだ。入ってみよう。
店内は7割ほどのお客の入りで、お昼時ということもあってお客の出入りも盛んなようだ。小さめのテーブル席が並んだ店内だが、真ん中に大きめのテーブルがあり、一人客はもっぱらそこに着いている。それに倣い自分もその一角を占めさせていただく。
お茶を持って来たお店の人に「さしみ定食」をお願いした。今日はマグロとタイの盛り合わせとのことである。どちらも好物だ。
近くのテーブルで食事中の3人組のお客の会話が聞こえてくるが、どうやら六大学野球の試合についての話が交わされているようだった。六大学野球はおろかプロ野球についても門外漢な自分にはさっぱり理解できない内容である。
そうこうするうちに刺身定食がやってきた。刺身は見るからに新鮮で美味しそうだ。タイとマグロだけでなく、マグロブツも入っているのは嬉しい。味噌汁をひと口啜ってからさっそくタイを味わう。何も言うことはない。
野球ファンではないがそれでもテレビのニュースなどで野球の試合の映像を目にすることはある。見かけるたびに見事だと感じているのは内野手の動きだ。内野ゴロを拾って素早くファーストに投げるプレーはもちろんだが、ランナーがいる場合の内野ゴロで行われる瞬時の判断でダブルプレーやトリプルプレーを狙うプレーは素晴らしいの一言である。
この時、内野手は捕球した後にどこへ投げるかを過去の経験に基づいて判断しつつも同時に、転がってくる球を処理して望ましい結果を追求しているわけであり、まさにフィードフォワードとフィードバックを同時に行っていることになる。第5層錐体ニューロン様々ということになるだろうか。
学生街の老舗の人気店で食べる刺身定食に満足しないわけがない。何かと混迷の時代が続いているが、目先の課題に取り組みつつも次の動きを準備できる優れた内野手のような、エレガントで滑らかな生き方をぜひともしたいものだ。
文/仲田しんじ