もうそれは「水に流した」ことだと思えば、腹立たしさもいくぶんかは和らいでくる。何かのきっかけで思い出して憤慨することもあるが、それはもう水に流したことなのだ――。
駅のトイレで手を洗って「水に流す」
人のことであまり腹を立てるほうではないと思っているが、10年ほど前に体験した理不尽な出来事が不意に思い出されてきた。返す返すも腹立たしい出来事だったのだが、水に流すと決めたことである。関わった者には二度と会うこともない。すべては終わったことなのだと再確認できれば、怒りも収まってくる。
仕事の用件を終えて高田馬場駅に戻ってきた。夜7時を過ぎていてちょっと飲むにはいい時間だが、部屋に戻ってから終わらせたい作業が少し残っている。飲まずにどこかで手早く何か食べてから帰ることにしたい。
しかしその前にどこかで手を洗いたい。さっき電車の中で少しよろけて右手の手のひらをべったりとドアのガラス窓に着けてしまった。あまり気にすることもないのだが、ガラスには何かの飲み物がかかったような汚れがあって、それが少し手に着いてしまったのだ。
しかしもう改札を出てしまったので、駅構内のトイレは使えない。確か地下鉄の改札に通じている地下の通路にトイレがあったはずだ。駅の地下に降りることにする。
この時間に山手線を高田馬場で降りて東京メトロ東西線に乗り換える乗客は少数派ということになりそうだ。逆に東西線を高田馬場で降りて西武新宿線に乗り換えようとする人はそれなりにいそうで、人の流れに逆らいつつ地下構内を進む。
鉄道を利用をする通勤客の数もすっかり戻ってきた感がある。ということは“リモートワーク”は考えられていたほどには定着してはいないのかもしれない。多くの組織ではまだまだ皆が集うオフィスが必要なのだろうか。
トイレに入り洗面台を借りて手を洗う。ひとまず気持ちも軽くなった。文字通りきれいさっぱりと汚れを水に流すことで気分もリセットできるというものだ。さっきよみがえってきた腹立たしさと同じく「水に流す」ことはその時々で必要なことなのだろう。
手を洗えば心身がリフレッシュされる
地下通路から地上に出る。さて、どこか店に入ることにしよう。時間もないのであまり帰り道から離れるわけにもいかない。ひとまず早稲田通りを右に進む。
お盆は過ぎたがまだまだ暑い。こう蒸し暑いと久しぶりにサウナに行きたくもなってくる。今日は無理だが、近いうちに機会を窺ってみたい。
手を洗うだけでも気分は晴れるのだから、言うまでもなくサウナで小一時間ほど過ごすことができれば、身も心もリフレッシュできる。最新の研究でも、自分自身をきれいに洗うことは不安の軽減に繋がることが示されていて興味深い。全身や身体の一部を洗うことで、ストレスフルな出来事からの影響を軽減することができるというのである。
人間の心には、ストレスに対処するためのさまざまなメカニズムがありますが、身体的な行動はどのような役割を果たしているのでしょうか?
生物種をまたぐ自発的グルーミング(毛づくろい)活動の行動学的観察に触発されて、私たちは一般的な仮説を提供します。洗浄はストレスの多いイベントの影響を減衰させます。
全体として実際の洗浄と模擬洗浄は、汚染や病気とは関係なく、洗浄によって解決されない場合でも、物理的または心理的ストレッサーの影響を軽減します。
毎日の洗浄行動は、身体的リスクや自己に対する心理的脅威などのストレッサーへの対処を容易にする可能性があります。
※「SAGE Journals」より引用
カナダ・トロント大学とオランダ・アムステルダム自由大学の合同研究チームが2022年7月に「Social Psychological and Personality Science」で発表した研究では、実験を通じて身体を洗う行為によって過去に受けたストレス体験が心理的に切り離され、その結果ストレスが軽減されることを報告している。
1150人の成人が参加した実験では、まず参加者に不安と緊張を誘発するビデオ(バンジージャンプ台の先端に立っている女性の映像)が見せられ、その後無作為に3つのグループに分けられてそれぞれ「手を正しく洗う方法を示すビデオ」、「円を描く方法に関するビデオ」、「卵の殻をむく方法に関するビデオ」を視聴した。
参加者から収集したデータを分析した結果、手洗いのビデオを見たグループは、他の2つのビデオを見たグループに比べて、その後の不安のレベルが低いと報告する傾向が浮き彫りになったのだ。つまり手を洗う人を見ることで不安が軽減されたのである。
必ずしも洗う行為ではなく、自分の身体を撫でさする行為が不安を和らげているのではないかという疑問も持ち上がったのだが、それを検証するための実験も行われ、自分の身体を撫でさする行為よりも、洗う行為のほうが不安が軽減していることを示す有意な差が確認された。
さらに心血管活動をモニターしながら行う実験も行われ、やはり洗う行為で不安とストレスが生理学的にも低下していることが確かめられたのである。
手を洗ったり、身体を洗ったりすることで身体の汚れと共に、過去に受けたストレスを文字通り「水に流す」ことができるということになる。ともあれ一度手を洗うことでモヤモヤした懸念が払拭できてなによりである。
ノンアルコールで牛たんを堪能する
駅前の信号が赤から青に変わる。早稲田通りを横切る横断歩道を渡る。
信号を渡ってすぐの外装工事中のビルにはいろんな飲食店が入っていてよりどりみどりである。今日のところはこのビルのどこかのお店に入ることにしようか。
ビルの入口付近に表示されている各階のテナントの一覧を見て牛たんのお店に食指を動かされた。数年前に一度入ったことがあったはずだ。いいだろう。久しぶりに入ってみたい。
けっこうなお客の入りで、まぁそれでなくとも一人客なのでお店の人にカウンター席に案内される。メニューを眺めつつ、1杯くらいはアルコールもいいかなとも思うのだが、今はやめておきたい。そのぶん少し奮発したメニューでもいいのだろう。お店の人に「牛たん3種盛セット」をお願いする。
コロナ禍で遠ざかっていたサウナにも久しぶり入りたいとは思うのだが、意外なことに高田馬場には街のサウナがない。少し離れた場所にサウナがある銭湯がいくつかあるだけだ。山手線の駅の学生街で、地下鉄を含めて3路線が乗り入れている規模の街としてはけっこう意外ともいえる。確かカプセルホテルもなかったはずだ。そうした需要は新宿か池袋に任せているということだろうか。
とはいっても上野で人気のサウナ施設も今年6月に閉店しているというし、その前には水道橋にあった老舗のサウナも閉店している。日常的にサウナに入るサウナ人口も徐々に減ってきていることは想像に難くない。そしてもちろん、銭湯も後継者問題などで先細りであるのは明らかだ。サウナも銭湯も、まさに水に流されてしまう庶民の文化なのだろうか。
すでに一部でそうなりつつあるが、今後のサウナは高級路線のラグジュアリー施設か、あるいはスーパー銭湯などの郊外型の施設がメインとなっていきそうである。
牛たんがやってきた。なかなかのボリュームで見るからに美味しそうだ。さっそくいただこう。
牛たんならではの歯応えが嬉しくて美味しい。種類によって肉の厚さが違っているので食べ進めるほどに面白くなってくる。たまには食べてみるものだ。
ご多聞に漏れず昨今は食材費の高騰が続いており、その中でも特に牛たんはここ最近で急激に仕入価格が上昇しているという。こうしたお店であれば比較的手軽に食べられる牛たんだが、今後はやはり庶民にはなかなか手が届かない高級料理になってしまうのだろうか。大衆的な町のサウナと同じく、食べたい時に気軽にちょっと食べられる牛たんの食文化もまた、水に流されないことを望むばかりだ。
文/仲田しんじ