【短期集中連載:Vol.2】カジノ&ギャンブルポーカーの歴史とテキサス・ホールデムの流行
ナマステ。カジノライターのかじのみみです。皆さんは、ギャンブルがお好きですか?嫌いですか?それとも、中立的な立場ですか?
ギャンブルに対してどんな感情が伴ったとしても、我が国日本はすでに立派な「ギャンブル大国」。その事実に真正面から向き合い、ギャンブルがもつ魅力や魔力をほんの少しだけ掘り下げ10回シリーズでお届けしてまいります。ギャンブルは悪か?地域交流の手段か?あるいはその両方なのか・・・?
シリーズ②のテーマは、「ポーカーの歴史とテキサス・ホールデムの流行」です。
【Vol.1】ギャンブルは諸悪の根源なのか?カジノの歴史とドストエフスキーもハマったルーレットの魔力
4000円を2億円にした伝説のギャンブラー
ギャンブルの起源は気が遠くなるほど古い。例えばダイスギャンブルは、チグリス・ユーフラテス川、ナイル川、インダス川、黄河の河川流域に発達した「四大文明」に遡ることができる。そこから比べると、紙の発明や発展を待たなくてはならなかったポーカーは比較的新しいゲームだ!ポーカーは、どんな歴史の道を辿ったのだろう?
ポーカーの起源は16世紀頃で、原型はペルシアのカードゲーム「アズ・ナス」から来ていると一般的には伝えられている。しかしながら、洋書『ROLL THE BONES』の著者であるデヴィッド・G・シュワルツ氏は、「アズ・ナス」よりもドイツの「ポッヘン」やフランスのカードゲーム「ポーク」の方がポーカーの先行ゲームではないかと同書で主張した。ゲームの名前を見ても同氏の言葉には賛同できそうだ。
18世紀頃、ポークはフランスの植民地であったアメリカ・ルイジアナ州を経由して北部へと移入されたという。この頃がアメリカンポーカーの夜明けである。1デッキ(1箱)のトランプがあればその他の道具を必要としないほど手軽なゲーム。このシンプルさが好まれたのか、ポーカーはアメリカ南北戦争の軍人たち、ミシシッピー川を行き来する旅人、商人、地元民の間で瞬く間に広がっていった。旅を続けるボエジャーと移住民セトラーに受け入れられた大衆風ギャンブルの代表例といえるだろう。
当時のミシシッピー川周辺では、ポーカーで賭けをした際に現金を賭けると捕まる恐れがあったためギャンブル用のチップが考案されたという。まったくもって、過去も現在も人が思いつくことは同じではないのか!違法なものを取り締まる当局とそれをかわそうとする人々の攻防は、いつの時代にも存在しているようだ。
さて20世紀に入り、ポーカーはカジノ施設に導入されるようになった。1993年頃のラスベガス・カジノで本当にあったとされる伝説を一つご紹介しよう。元ポーカーディーラーのマーク・イラ・フリードバーグ氏の証言である。同氏の著書「CONFESSIONS OF A POKER DEALER」から一部をご紹介させていただきたい。
1990年代、ラスベガスのカジノに「アーチー」と呼ばれるギャンブラーがいた。彼の故郷はギリシャであったが、素性は謎に包まれていた。ある日、アーチーは30ドルをおそらく「知人から借りて」クラップスというゲームに講じた。そこで賭けた30ドルは数千ドルになって戻ってきた。そう。彼はカジノで”大勝“をしたのである!
一般的なマスプレーヤーであれば、数千ドルの勝ちが確定したところでプレーは止めるだろう。チップを現金化した後はウキウキとしながら最高峰のレストランで舌鼓をし、ショッピングに出かけるかもしれない。だがアーチーはここで終わらなかった。
「クラップステーブルダイアモンドプリンセス・クルーズ内カジノ2014年撮影」
アーチーはビリヤード場に行き勝ちを30,000ドルに増やした。脳ミソがヒリヒリとしていたのか、今度はその軍資金を持ってポーカールームを訪れたのである。連続したプレーの勝利額は約2億円(2022年7月31日為替レート)に到達した。元金は約4,000円、しかも他人のお金である。結局彼は、3週間も経たない間に約24億円を荒稼ぎしてしまったのである。参加ゲームはポーカーとクラップスだったという。
ギャンブルの勝利者はギリシャに戻り、家族に家を買い、自身も商売をスタートさせた。だが結局、すべてのお金をギャンブルで使い果たしてしまったらしい。「悪銭身に付かず」とはよく言ったものである。
アーチーの、最初の連続勝負で勝った金額は2億円。現在のサラリーマンの生涯年収と考えられている額面である。そこでプレーを辞めたとしても無理をしなければ生涯にわたり悠々自適な生活が送れたはずだ。最終的に24億円を手にしたのなら、上手な運用はできなかったのか。
(なぜ?ばかもの~。そこで辞めればいいのに、もったいない!)
と心の中で叫んでも、大ギャンブラーの頭の中では別のロジックが働いているのだろう。そもそも、最初の数千ドルの勝ちでプレーを辞められる者は30,000ドルに勝ち上がることさえほぼ不可能である。だからアーチーは伝説となったのだ。
ポーカーは今や世界で見ることができる。その中でも「テキサス・ホールデム」が圧倒的な人気を集めている。このルールのポーカーゲームが主流になったのは20世紀後半で、2002年頃にはWSOPなど大規模なホールデム・トーナメントがTV放送され、それが世界での流行の火付け役になったという。
筆者のポーカーデビューも2002年。東京新宿にあった「パンドラルーレット教室」で、セブンスタッドを含むカジノディーラー業を担っていた頃である。当時ポーカーは日本では流行っておらずゲームは週数回の稼働のみ。現在では国内でもホールデム・トーナメントが数多く開催され、アミューズメントポーカー店は右肩上がりに増えている。
テキサス・ホールデムのブームは今後も続いていくだろう。日本のポーカー市場は20年前から比べると成長しているようだ。そうなのであれば、海外同様、国内でも高額賞金を受け取れるシステムの導入が望ましいのでは?と個人的には思う。ゲームやエンタテイメント分野から日本経済の再活性化を喚起できる可能性も、或いはあるのかもしれない。
取材・文/かじのみみ
カジノライター/ カジノコンサルタント
カジノ・IR・ゲーミング業歴31年。カジノディーラー歴25年。10歳から15歳までインドのボンベイで育つ。2001年、米ラスベガスのPCIディーラーズスクールにて日本人初としてブラックジャック・ルーレット・バカラのディーラーライセンス取得。国内カジノメーカーでの広報・カジノイベント企画運営責任者、米系大手カジノ事業主のVIPマーケティング業を得て、2013年8月フリーとなる。2012年 立教大学大学院 ビジネスデザイン研究科(MBA)修士課程修了。2019年 マカオ大学 グローバルリーダーシップ育成プログラム 国際統合型リゾート経営管理学(IIRM) 修了。