小林祐希氏(左)をきっかけに食の宅配サービスを始めた坂本徹旗シェフ(右)=本人提供
アスリートにとって「練習・栄養・休養」は最高のパフォーマンスを発揮するための三大要素。練習は所属先の監督やコーチに委ねるところが多いが、栄養と休養は選手個々のマネージメントによるところが大だ。
とりわけ、栄養に関しては緻密な管理が難しい。「炭水化物・タンパク質・ビタミン・カルシムなどをバランスよく食べるべき」という理屈は誰もが頭では理解しているものの、練習で疲れた後に食事の支度をするのはかなり面倒だ。その結果、ファーストフードや丼ものなど炭水化物や脂質の高い食べ物を過剰摂取してしまう傾向も少なくないだろう。
実際、トップアスリートもそのあたりには苦労している。24時間外食できる日本にいても大変なのに、便利な環境にない海外組の選手はより厳しくなる。それを実体験したのが、元日本代表・小林祐希氏(江原FC)だ。
朝食を食べることも一苦労。欧州組サッカー選手のほとんどが食事の問題に直面
「僕は日本にいた頃から食事に苦労した1人です。東京ヴェルディ時代は、朝はコンビニおにぎりやゼリー、昼はクラブハウスで食べ、夜は外食という感じでした、まだましだったんですけど、2012年夏にジュビロ磐田に行ってからが大変だった。朝食抜きで練習に行く日が増え、ケガを繰り返すようになってしまいました。
それで朝に定食を食べられるところを探したんですが、なかなか見つからない。困り果てて相談した地元の熱心なサポーターの方が『ウチに来い』と言ってくれて、その方の家で食事するようになった。それから生活サイクルも変わり、徐々にコンディションが上がっていきました。
次に困ったのが、2016年夏のオランダ・ヘーレンフェーン移籍後。最初の1か月間はホテル生活だったんですが、主要なメニューは肉、ポテト、パスタやビザばかり。朝食もパンやシリアルやオートミール、バナナに牛乳という感じで、内臓の状態がおかしくなった。それで磐田時代にお世話になった方に来てもらい、ストックできる食事を大量に作ってもらいましたが、やはりそれだけでは足りなかった。
そこで2019年夏から旧知の友人でシェフの坂本徹旗に専属シェフとして来てもらいました。2021年夏に韓国へ移籍するまで3年間、サポートしてもらいましたが、本当に食事面のケアが重要だと痛感したんです」
こんな苦労を味わったのは、小林氏だけではない。長友佑都(FC東京)や本田圭佑らを筆頭に、現日本代表欧州組の数人も彼ら先人に倣っている様子だ。小林氏と坂本シェフも「アスリートの栄養サポートは必須だ」と痛感したという。
アスリート向けサプリメント販売会社と連携し、新事業立ち上げ
まさにそのタイミングで、彼らはアスリート向けサプリメント製造・販売を手掛けるノーム株式会社(本社=鹿児島市)の松元康太郎社長と出会った。同社は選手の血液検査をして、専属の管理栄養士がフィードバックし、サプリメントを作るという画期的なサービスを展開。遠藤保仁(磐田)や田中碧(デュッセルドルフ)、陸上のケンブリッジ飛鳥(ナイキ)など有名選手たちとサポート契約を結んでいる。
アスリートに最適な環境を届けようとしている松元社長がトップ選手の食にまつわる課題を知れば、何らかのアクションを起こさないはずがない。熟慮を重ねた結果、2022年からアスリート食の新事業立ち上げを決断。坂本シェフもメインスタッフとして参加することになった。
新サービスの名称は「ATHBE(アスビー)」。「BE ATHLETE」という言葉をイメージし、トップアスリートになりたい人、明日の自分のために頑張っている人々を手助けしたいという意味合いから命名。今年4月から実際に動き始めたのである。
「ノームのサプリメント同様に、まずは選手のカウンセリングを行い、血液検査を元に管理栄養士が必要な栄養素を分析し、生活リズムやトレーニングのスケジュールなどを踏まえながら、メニューを組み立てます。
メイン料理は1690円、本格スープが1590円、炊き込みご飯の具が1050円、ポタージュが650円(全て税込)。これらはそれぞれ12種類用意しています。
現状では24食分注文してくれている選手もいますし、1週間分の夕食だけという人もいます。疲れて帰ってきた後、8~15分程度湯せん調理するだけで、高級レストランに匹敵する味と栄養価の料理を手軽に食べられるというのは、多忙な人には嬉しいこと。そうあってほしいと願いながら、僕はキッチンで料理に明け暮れています。
もう1つ、380円(同)のリカバリーバーというのもあり、2種類用意しています。リカバリーバーはアーモンド、クルミなどの天然ナッツ、ブルーベリー、アプリコットなどの無添加無着色のドライフルーツをふんだんに使っていて熱量はわずか180キロカロリー。市販のカロリーバーなどに比べると栄養価が豊富でバランスも取れているので、かなりお勧めです」と坂本シェフは笑顔をのぞかせる。
一般への展開は2023年中が目標。質の高い料理人確保が最大の課題
一般顧客に関しては現在、ノームのサプリメント購入者やイベント参加者だけが申し込めるようになっており、2023年中には販路を拡大したいと考えているという。
それに向けて、越えなければならないのは、料理の作り手増員というハードルだ。今は坂本シェフ1人が全てのメニューを作っているが、同じクオリティの食事を作れる人を探すのは至難の技だという。シェフによって料理や知識、経験、アスリートへの理解などは千差万別で、誰でもいいというわけにはいかないのである。
「僕が教えるにしても、その通りにやってもらうのはなかなか難しい。それが料理なんです。自分は目の前の調理に奔走しているので、他の人に教えている時間もそうそう取れない。現状を打開するのは本当に難しいテーマです。いかにして料理人の仲間を増やし、ネットワークを広げていくのか。その課題をクリアすべく、知恵を絞っているところです。
ただ、このサービスを必要としている人は絶対にいる。アスリートはもちろんのこと、共働きの家庭やシングルマザー・ファーザーの家庭、忙しい単身ビジネスマンなど、手軽に栄養価の高い料理を食べたい人は少なくない。『メイン料理が1690円』という価格設定にしても、ほとんど材料費なんで、かなりリーズナブル。アスリートを中心によさを理解してもらって、長期的視野に立って、徐々に広げていけるようにしたいですね」
簡単に湯せんするだけで食べられる質の高いメニュー(本人提供)
こう語る坂本シェフは、「質の高いおいしい食事を食べたい」という人々にとっての永遠の課題に日夜、取り組んでいる。小林祐希氏も、彼とノームの事業に自身の経験が少しでも役立てばいいと、最大限の支援をしている模様だ。
10年後の小林祐希氏のセカンドキャリアの軸が、今回の食の宅配サービスのようなスポーツ界に貢献できる事業になっていれば、関わる全ての人にとって理想的な展開ではないか。そういう意味も含めて、今後のアスビーの展開を興味深く見極めていきたいものである。
取材・文/元川悦子
長野県松本深志高等学校、千葉大学法経学部卒業後、日本海事新聞を経て1994年からフリー・ライターとなる。日本代表に関しては特に精力的な取材を行っており、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは1994年アメリカ大会から2014年ブラジル大会まで6大会連続で現地へ赴いている。著作は『U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日』(小学館)、『蹴音』(主婦の友)『僕らがサッカーボーイズだった頃2 プロサッカー選手のジュニア時代」(カンゼン)『勝利の街に響け凱歌 松本山雅という奇跡のクラブ』(汐文社)ほか多数。