決して投げやりなニュアンスではなく、物事はなるようにしかならないとは思う。それでもいくつかは「あの時、ああしていれば」と思い返すこともある。もちろん後悔したところで仕方がないのだが――。
新目白通り沿いを歩きながら旅の後悔を思い返す
もはや後悔したところで時間の無駄というステージにきてしまっている人生なのだが、思い返してみて「あの時、ああしていれば」と思うことはいくつかある。
巣鴨新田から珍しく都電荒川線に乗り、終点の早稲田で降りた。本来は鬼子母神前で降りるつもりだったのだが、天気に恵まれた午後に早稲田界隈を少し歩いてみてもよさそうに思えた。夕方5時を過ぎていたが、最近は日が長くなっているのでもうしばらくは明るいだろう。“小さな旅”にはうってつけだ。
コロナ前、旅はその気になればいつでも行けるものだという感覚がどこかにあったかもしれないが、そんな気持ちも大きく変わったのではないだろうか。
かつて訪れた徳島県での自分の行動を振り返ると、ややのんびりし過ぎていたのではないかと少し後悔を感じたりもしている。鳴門海峡に行って鳴門大橋を見物し、観光船に乗って海峡の渦潮を目の当たりにしたのだが、それで観光気分が満たされてしまい、翌日は徳島市内でサウナに入ったりしながらダラダラ過ごしてしまった。
地図を眺めて徳島市から南方面の小松島や阿南などにも行ってみたい気持ちもあったのだが、重い腰があがらずに結局は市内でのんびり過ごし、その後に帰路に向かうことになってしまったのだ。
もちろん物見遊山だけが旅ではなく、気分をリフレッシュさせて英気を養ったり、日常を離れてのんびり過ごすこともまたひとつの旅だろう。しかしそうしたことを差し引いたとしても、徳島ではもう少し動いてみてもよかったように思えてくる。「後悔先に立たず」以外の何物でもないのだが……。
新目白通り沿いを歩く。この界隈を歩いたことはあまりないのだが、意外にも人出がある。買い出しの時間帯ということもあるが、しかしこの辺りには大きいスーパーなどはないように思える。早めの夕食を食べに来ている人がそれなりにいるのだろうか。
そういえば今日は朝にゼリー飲料を腹に流し込んで以来、何も食べてはいなかった。どこかで食事にしてみてもいいのだろう。夕食ではなくあくまでも昼食であり、“遅すぎる昼食”だ。
徳島を訪れたのはその時が初めてで、当然だが現地の地理に明るいわけではなかった。小松島や阿南がどういった場所なのか何も知らないのだから、もし訪れていたならどんな旅の体験になったのかまったくわからない。そして未知数であったからこそ、行かなかった後悔が深まりそうだ。
もし事前に現地について調べてどんな物見遊山になるのかある程度把握したうえで見送っていたのだとしたら、それほど後悔せずに済んだのだろうか…。
「逃がした魚」は見えなかったほうが大きい?
いかにも人気がありそうなラーメン店の角を左折する。おそらく早稲田大学に通じている通りが延びている。飲食店も少なくないはずだ。進んでみることにする。
「逃がした魚は大きい」というが、釣りあげようとしていた魚が水面まできて魚影を見ることができれば、少なくとも魚の大きさはわかる。しかし見えないままの状態で逃がしてしまえば、もちろんだが魚のサイズはわからないままで、手応えなどから推測するしなかない。
もちろんどっちも悔しい体験になるのだろうが、最新の研究ではこのケースの場合、魚が見えていなかったほうが、主観的な魚のサイズが大きくなることを報告していて興味深い。逃すまでに費やした時間なども考慮すれば、実際の悔しさはあくまでもケースバイケースではあると思うものの、見ることができた相応のサイズの魚を逃すよりも、見ることができなかった(主観的に)大きい魚を逃したほうが悔しさが増してきたとしても不思議ではない。
過去の研究では、放棄された代替案の結果を観察することが後悔の重要な原動力であることが立証されています。
この研究では、一見反対の結果を予測し、経験的に裏付けました。私たちの研究の参加者は、見送られた選択肢の結果が明らかにされたときよりも、観察しなかったときに後悔を経験する可能性が高くなりました。
私たちの予測は、2つの理論的観察に基づいています。第一に後悔の気持ちは、選んだ選択肢と、見送られた選択肢が何であったかについて、自分の信念と比較することから生じることがよくあります。
第二に、不確実性の下で選択する選択肢がたくさんある場合、かろうじて選択されなかった選択肢の知覚される魅力は、その現実を超える傾向があります。
事前に登録された4つの研究で、参加者は見送られた選択肢を予想通り過大評価しており、この過大評価は過度の後悔を引き起こしていることがわかりました。
※「SAGE Journals」より引用
米・ダートマス大学とスペイン・ナバーラ大学の合同研究チームが2022年1月に「Psychological Science」で発表した研究では、我々は詳細を何も検討せずに見送った代替案を過大評価することで後悔をより深めていることが、実験を通じて示されている。見えた魚よりも見えない魚のほうを過大評価し、そのため同じ逃すにしても見えなかった大きな魚を逃したほうがより後悔が深まるというのである。
実験の1つでは参加者は企業の採用担当官の役割が与えられ、いずれもきわめて限定的なプロフィールしか開示されていない10人の求職者からまず採用候補者を2人に絞ることが求められた。
こうして二者択一の設定から最終的に1名の採用者を決めてもらい、その時点でその人物の詳細なプロフィールが開示された。そして参加者の半数には、その後に採用を見送ったもう1人の人物の詳細なプロフィールもまた開示されたのだ。
採用を決めた人物が申し分のないプロフィールであればもちろん後悔することはないだろう。しかしそのプロフィールが期待していたほどではなく後悔の念に駆られた場合、見送った人物のプロフィールを見せられた場合よりも、伏せられたままであった場合のほうが後悔の念が深いことが浮き彫りになったのである。
つまり見送ったほうの人物の詳細プロフィールを知らないままであると過大評価に導かれ、なぜそちちを採用しなかったのかと、より後悔が深まっていたのだ。
釣れなかった未だ見ぬ大きな魚も、訪れなかった知らない土地も、期待が膨らむぶんだけに過大評価に繋がり、その後悔もひとしおということになる。かつての徳島旅行に今でも少し後悔を感じているのも、こうした心の働きからきていることにもなる。
“そば屋のカレー”を久しぶりに味わう
通りを進むと十字路に差しかかる。横断歩道の向こうにはインド料理屋が見えるし、どの方向に行っても飲食店はありそうだが、信号手前にいる自分のすぐ右側には立派な瓦屋根の庇の蕎麦の店がある。庇の上の木製の看板にも年季が入っていてひと目見て老舗のお店であることがわかる。店先に置かれた立て看板には店名と共に「創業大正八年」の文字もあった。
そばを食べたい気分ではなかったのだが、入口の左側に置かれたボード看板にはカツカレーの写真とともに、フェア中であることが告知されていた。カツカレーもよさそうだ。入ってみよう。
店の人に促されてテーブル席に着く。平日の夕方5時過ぎという中途半端な時間だが、年配の男性のグループはすでにいい感じにアルコールが入っているようだし、食事をしているお客も思った以上にいる。この時間に食事をする人も案外いるものだ。もちろん自分もその一人なのだが…。
紙おしぼりと冷たいお茶を持ってきてくれたお店の人に迷わず「カツカレー」を注文する。
少しばかり悔やまれる徳島旅行ではあるのだが、「あの時、ああしていれば」という思いは人生の上ではいくらでもあるのだろう。学生時代にもし違う学校に行っていたらどうなっていたのかと思うこともあるだろうし、社会人になっても別の会社で働いていたらどんなキャリアになっていたのかと折に触れて考えることもあるかもしれない。
人生は選択の連続であり、過去を悔いても仕方のないことだが、選択にもいろいろあって、その後の人生がガラリと変わる重要な選択もあれば、どれを選ぼうがそれほどの違いはないという選択もあるだろう。そして圧倒的に多いのは後者のほうに思える。
「カツカレー」がやってきた。カツも大きいしご飯の量も多くてなかなかのボリュームだ。ベースのカレーにはモツが入っているようだ。
まずはカレーとご飯をスプーンですくってひと口頬張る。ほんのりと出汁の風味がする“そば屋のカレー”だ。これはこれで美味しい。揚げたてのトンカツと甘口のカレーのコンビもいい。
確かに人生は選択の連続であり、カツカレーではなく信号を渡ってインドカレーを食べる選択もあった。しかしその大半はどれを選んでもさほど変わらない選択である。特に仕事といったような、人生の時間に占める割合の多い種類の選択については、多少は紆余曲折したりするにせよ大きく変わることはないのではないかという気もしている。
最初に就職した会社がどうであれ、やりたい仕事は続くし、やりたくない仕事は続かない。またできる仕事は続けられるし、できない仕事はよほどのことがない限りは続けられないだろう。努力してできるようになった仕事は本来的にその人ができる仕事なのだとも思える。とすればたいていの場合、仕事面でほかの選択をしていても現在の自分とあまり変わるところはないのかもしれない。
自分の行動力のなさが悔やまれる徳島旅行であったが、市内でゆっくりとしていた時間がまったく無為無策であったというわけでもない。じっくりとサウナで汗を流した後には瀬戸内海の魚介を味わい、徳島ラーメンの人気店にも入り東京ではなかなか味わえない一品を楽しむこともできた。そう考えれば実はそれほど悪くない旅であったともいえる。
「逃がした魚は大きい」のだが、同時に「後悔先に立たず」でもある。さて久しぶりのカツカレーを存分に味わってから店を出ることにしよう。少なくともこの“小さな旅”で後から後悔することは微塵もなさそうだ。
文/仲田しんじ