「文化の盗用」を少し立ち止まって考えてみる。
使う人間が生きているのと同じように、生きているのかもしれない言葉。
使われ方や使われる社会が変わることで、意味や解釈を変える言葉。
なんとなくイメージで捉えてしまったまま分かったつもりになっているけど、実際は曖昧ということもよくあると思います。
今回は”Cultural appropriation(カルチュラル・アプロプリエーション)”、「文化の盗用」を取り上げて、最近話題の中心となることが増えている一方で、理解が難しいこの言葉を少し立ち止まって考えてみます。
「文化の盗用」の意味
「文化の盗用」とは、自身が属するコミュニティのものではない文化を、十分に理解しないままに、敬意を示すことなく使うことを指す言葉。
他者の文化を使った表現がこの言葉のもとで批判されるケースが急増し、ニュースなどで目にする機会も多くなっていますが、同時に線引きの難しさから、接する一人一人が考えることを求められていると感じます。
「文化の盗用」のどういった点が問題として指摘されているのでしょうか。
話題になった世界の実例
2019年、アメリカのセレブリティであるキム・カーダシアンが、自身がプロデュースする補正下着のブランドに「Kimono(キモノ)」とネーミングしたことを発表し、その名づけが「文化の盗用」であるとして大きな批判を集めました。
世界中の人々の注目を集める有名人のキムが、日本文化の間違った認識を広める可能性のある名称の使い方を、セールスのためにしていることが指摘され、ブランド名変更を求める運動がソーシャルメディア中心に巻き起こり、その結果キムはブランド名を変えることを余儀なくされたのです。
注目したいのは、このように「文化の盗用」が指摘される際に「盗用者」と「盗用された文化(の持ち主)」の間にある非均衡について。
キムは、彼女のファーストネーム”Kim”と”Kimono”の語呂の重なりを意識して”Kimono”という名づけをしたと思われますが、「Kimono」という名前のアメリカ発補正下着ブランドを打ち出すことには、根本に西洋中心主義から見たアジアとしての日本を「外部」とし、「外部」であるが故の「異質さ」を重視する価値観があると考えられます。
つまり、西洋を中心としていなければ消失するアジア文化への評価を行為が暴露しているということ。
そして、さらにその「異質さ」を利用して利益を得ようとしていることが「盗用」と指摘されるに足る不公正さを孕んでいると言えるでしょう。
文学研究者のエドワード・サイードは、西洋と「西洋でない」とされるものの間に支配的な力関係があること、その力関係のもとで西洋からまなざされる「西洋でない」とされるものへの好奇の視線が持つ差別性を指摘しました。
「文化の盗用」においては、そうした力関係、つまり「盗用者」のポジション、特権性が大きな意味を持ちます。
文化を表面的に借用する行為が、一方的にマジョリティにあたる存在だけに利益をもたらし、その文化について間違った認識を広め、さらに非均衡な力関係や差別の構造を強化してしまうことこそが「文化の盗用」の問題点なのです。
BLM運動とブラックカルチャーの盗用
アメリカで歴史的に続く黒人への差別的暴力へのカウンターとして発生したブラック・ライブズ・マター(Black Lives Matter、BLM)。
2012年にフロリダでトレイヴォン・マーティンさんが射殺された事件に際しハッシュタグが使われ、その後も増え続けてしまった犠牲者の数とともに運動は大きくなりました。
ジョージ・フロイドさんが殺害された2020年にコロナ禍の最中に大きなデモが各地で行われるなど、世界を巻き込む大きなうねりとなったことを鮮明に記憶する人も多いと思います。
奴隷解放から公民権運動を経て現在も、差別の構造が色濃くあり続け、それによって命を落とす人々さえ数多くいる現実。
ブラックカルチャーを表面上だけで取り入れる白人層に批判が寄せられることと、こうした背景を切り離すことはできません。
「文化の盗用」という指摘に対しては、「私は差別をしていない」、「好きだからしたことで、悪気はない」といった個人的なアンサーの前に、社会的なマジョリティ、またはマイノリティとしての自身の立ち位置について鑑みること、理解することがより大切になります。
境界線を引く難しさとできること
異文化に心を奪われ触発されることで、新たな芸術表現が生まれることは大変多く、それらすべてを「文化の盗用」と断ずることは決してできません。
どこからが「文化の盗用」にあたるのか、線引きすることはとても難しく、だからこそ、この言葉とともに立ち止まって考える機会が必要です。
触れた文化に触発されて何かを表現する際に、それが「盗用」になってしまわないよう、気をつけられることは多くあります。
歴史を知り、敬意を持つことを基本的として、文化の持ち主の意見を尊重した意思決定ができるように努めることや、発生した利益を該当のコミュニティに還元することも大切です。
表現の際のクレジットを徹底し、文化の正しい理解を啓蒙する表現の模索もできることの一つでしょう。
しかし、私たちはみな、生きている上でその濃度に違いはあっても、常にマイノリティであり同時にマジョリティでもある。それは誰しもが「盗用」してしまう可能性を持っているということです。
ならば、ひとたび批判が起きた場合に、真摯に指摘に耳を傾けて学び、誤りがあった場合には反省と是正を恐れないことが必要で、「文化の盗用」という言葉が社会に求めているのはその姿勢に他ならないのではないかと思います。
間違えた時にどうするのかこそが肝心です。
自分がどんな時にマジョリティとなり、そしてどんな時にマイノリティとなるのかを振り返ってじっくり考えてみることは、「文化の盗用」の意味を考える上でも、よりよい方向を目指して生きる上でも大切なこと。
新しい視点を与えてくれる言葉とともに。
文/山根那津子
ジャーナリズム誌やカルチャー誌の編集をしていた何者でもないただのフェミニスト。自身のミソジニーに気がついて一時ベルリンに移住。書くこと、描くことが好き。
編集/inox.