夕方のラッシュアワーの人波に流されながら駅の北口に向かっていると、前方から流れてくる香水の匂いに鼻をくすぐられる。その香りに懐かしさがこみあげてきたのは意外だった。香りに触発されて頭に浮かんできたイメージは大都会・ニューヨークだ――。
香水の匂いについて考えながら椎名町の駅前を歩く
練馬区某所からの帰路、西武池袋線を椎名町で降りる。もう完全に日は暮れていて夜7時になろうとしていた。商店街を少し歩いてどこかで何かを食べてもいいし、今日はもう急ぐ用事もないので少し早いが「ちょっと一杯」にしてもいい。そもそもこのご時世なので、飲むと決めたらさっさと行動に移さないことには、あっという間にラストオーダーだ。
駅前商店街の一角からは、香ばしいだし汁の匂いが漂ってくる。肉そばで有名な立ち食いそば店からの匂いだ。久しぶりに肉そばを食べたい気もしてくるが、今食べるとそれで終わってしまう。飲んだ後にまたやって来てもいいかもしれないが、今の“時短”で間に合うだろうか。ともあれこんなご時世で自分で自分を急かしてもナンセンスである。次の機会にしよう。ひとまず駅前を左に進む。
不織布のマスクはしているものの、今日は妙に匂いに心が動かされている。ついさっきも思いがけず懐かしい匂いに出くわした。それは香水の香りだ。
もう20年以上も前の話にはなるが、初めて訪れたアメリカ・ニューヨークは見るものすべてがもの珍しく、実に新鮮な体験であった。若かった当時の自分にはあこがれの地であり、初めて実際に足を踏み入れるニューヨーク・マンハッタンでかなりハイテンションになっていたことは間違いない。いろんな光景が印象強く記憶に刻み込まれたのだが、我ながらなかなか素敵な思い出になっているのが、マンハッタンの街中で何度も嗅いだ香水の匂いだ。
香水には詳しくないので、その香りが具体的にどの香水であるのかは今もってわからないが、匂いは正確に憶えている。その当時のマンハッタンの人々の間で流行っていたということなのかもしれないが、滞在中には何度もその香水の匂いを嗅いでいたのである。そして日本でこの香水の匂いを嗅ぐとこの時に訪れたマンハッタンの街角の情景が思い浮かぶのだ。
もちろん普段からその匂いについて意識しているわけではないのだが、今回のように偶然にその匂いを嗅ぐとまず最初に懐かしさがこみあげてきて、いったんどういうことなのかと少し混乱させられる。その後に思い当たるふしを探しているとニューヨークでの旅の思い出であったことに気づかされるのである。まさに“懐かしい匂い”だ。
チェーンの飲食店が並ぶ駅前通りを進むと、屋根のあるアーケードの商店に通じる。入口にある青果店をはじめ、この商店街にはそれまでとは打って変わって明らかに古くからある店が並んでいる。
アーケードに足を踏み入れて少し歩くと左側に老舗のそば屋が見える。さらにその先は寿司屋があり、右手にはタイ料理屋や韓国チキンの店もある。さらに進みアーケードの終点には古くからやっている焼き鳥の店がある。店先からは食欲をそそる焼き鳥の匂いが漂う。焼き鳥を買って帰って部屋で飲むのもいいが、今は動ける時間がまだあるのでもう少し歩きたい。
ノスタルジックな“懐かしい匂い”を科学する
焼き鳥が焼ける匂いも個人的には“懐かしい匂い”だ。しかし焼き鳥の場合はニューヨークのように1ヵ所に限定されているわけではなく、いくつもの焼き鳥の店があれこれと思い出されてくる。その中にはもう今はない店も少なくない。
アーケードの商店街を通り抜けると目の前はスーパーマーケットだ。左へ行けば線路を渡る踏切があり、右にも商店街が延びている。右に進むことにした。
香水の香りといい、焼き鳥が焼ける匂いといい、特定の匂いで懐かしさがこみあげてくるのはなぜなのだろうか。最新の研究では、匂いと場所の記憶は脳内で深く結びついていることが報告されていて興味深い。
「海馬システムが一次嗅覚皮質(primary olfactory cortex)に信号を送ることを私たちは知っています」
「それで私たちは、この脳の領域が単に異なる匂いを識別する以上のことをするかもしれないと思いました」
「いくつかのニューロンは匂いに反応し、他のニューロンは場所に反応し、さらに他のニューロンはさまざまな程度で両方のタイプの情報に反応することがわかりました。これらの異なるニューロンはすべて絡み合っており、おそらく相互接続されています。したがって、嗅覚=空間の活性化を推測できます。この関係性はこのネットワーク内のアクティビティを通じて発生する可能性があります」
※「Champalimaud Foundation」より引用
ポルトガルのシャンパリモー財団とアメリカのクレアモント・カレッジの合同研究チームが2021年12月に「Nature」で発表した研究では、実験を通じて匂いと場所の関連性は人間の認知機能に深く埋め込まれたものであることを示していて興味深い。匂いと場所の記憶は脳の同じ場所で処理されているからこそ、我々は“懐かしい匂い”をいくつも持っているというのである。
研究チームはマウスを十字型の迷路に配置し、4つの行き止まりにそれぞれシトラス、草、バナナ、酢の匂いを発生させる装置を設置し、たとえばシトラスの香りがする場所には水があるといった報酬を設定した。
こうして報酬のある場所と匂いの関連を学習したマウスの脳活動をモニターしながらその行動を追跡してみると、場所に関する情報を処理している海馬で活動するニューロン(神経細胞)が、嗅覚をつかさどる後部梨状皮質にも存在していて、その活動が同時に起こっていることが突き止められたのだ。つまり場所に関する情報について、海馬のニューロンだけでなく嗅覚皮質のニューロンもまた“学習”していたのである。
懐かしさを感じるのは主に視覚情報からの情景であると考えられがちではあるが、実は匂いもまた時間と空間を越えて我々の感情に働きかける力を持っていたのである。子どもの頃の楽しかった海水浴の思い出が生暖かい潮風の匂いでよみがえってきたり、夕食時の住宅街で味噌汁の匂いを嗅いで実家に帰りたくなったりするなど、我々はいくつもの“懐かしい匂い”を脳と胸の内に抱えていることになりそうだ。
スタミナ焼きを噛みしめて梅割り焼酎を啜る醍醐味
焼き鳥が焼ける“懐かしい匂い”に後ろ髪をつかまれる思いで歩いていると、通りの右側に軒先がビニールシートで覆われた店が見えてきた。店名には「やきとん」の文字がある。同じ串焼きでも鳥ではなく豚(とん)なのだが、個人的にはどちらも好物だ。何しろ今は“時短”の世の中だ。けっこうお客は入っているようだが、とりあえず店内をあたってみよう。
軒先にはテラス席になったテーブルが数卓あってどちらも埋まっていたのだが、店内は調理場を囲んだL字のカンターのみで、運よく右端の席が空いていてそこに着かせていただく。
自分のような1人客が多いのかと思えばそんなことはなく、現時点では1人客は自分だけのようだ。店内の半分くらいは男女のカップル客である。池袋から1駅の椎名町ではあるが、店内は付近住民ご用達の雰囲気を醸し出している。実際に自宅から歩いて来ている人が多そうだ。
地元密着系の店の雰囲気に甘んじて呑気に構えているわけにもいかない。さっそく注文しよう。まずはハイボールにキンミヤ焼酎の梅割りを一緒にオーダーする。こうした店での個人的な飲み方なのだ。
初めての店なのでとりあえずやきとんは「おまかせ5本串」にして、箸休め的な「生かぶ味噌」も注文した。手短にさっと飲んで食べて帰ることにしよう。
串がやってきた。お店の人から串の部位の説明を受けたのだが、1本目を食べているうちにどれがどの部位なのかすぐに覚束なくなってしまった。まぁそれはそれで構わない。1本1本の串を美味しく頂くことにしよう。つまりは“各個撃破”作戦だ。なんだか大げさだが……。
やきとんやもつ焼きの源流は埼玉県の東松山にあるともいわれているが、その一方でいかにも都内の場末の酒場にお似合いのメニューであるとも思える。個人的にもやきとんを食べるようになったのは都内で酒を飲むようになってからのことだ。
都内の某老舗チェーンでやきとんの味をしめ、その後はいろいろなお店で興味本位で食べてきたが、1つのポイントになっているのが「スタミナ焼き」である。肉の部位は店それぞれのようではあるが、カシラが多いように思える。何が“スタミナ”なのかというとニンニクを利かせてある点だ。店によってはすりおろしニンニクが添えられている場合もある。
メニューを見るとこの店にもスタミナ焼きはある、さっそくお店の人に追加で「スタミナ焼き」と「かしらあぶら」を1本ずつお願いする。
追加の串がやってきた。目論見通りの風味を楽しみながら肉を噛みしめる。じゅうぶんに咀嚼して味わって飲み込み、梅割り焼酎をほんの少し啜る。この瞬間もまた外で飲む醍醐味だ。
これから暖かくなってくると店先のビニールシートが外され、もつを焼く匂いが今以上に店の周囲に漂うことになるだろう。今はまだ寒い日もあるが、この先春が来ればますます串を焼く店の前を素通りできなくなってしまいそうだ。
文/仲田しんじ