ペットボトルの水を飲み干す。辺りにゴミ箱がないので空いたボトルはとりあえずはバッグの中に戻して持っているしかない。地下鉄でもゴミ箱が撤去されたことだし、外出時のゴミの処分はもはや諦めたほうがよいのかもしれない。
路上のゴミと駅のゴミ箱について考えながら街を歩く
歩きながら視線を落とすと、路上にゴミが落ちているのを認める。から揚げやソーセージを刺していたであろう木の棒と、それが入っていた小さな紙袋だ。もちろん残念なことである。
自宅周辺であれば拾って回収するという殊勝な行為に及ぶこともできたが、今は出先なのでさすがにそれは難しい。もちろんやってやれないわけではないのだが……。
西武線の江古田駅北口界隈を歩いていた。あと小一時間もすれば日が暮れてくるだろうか。朝から良く晴れた一日で、澄んだ冬空が気分を良くしてくれる。急いで帰路に就く必要はないので少し街を歩いて、どこかで何か食べてみるのもよい。
この辺りは練馬区の南端のエリアにあたり、一方の都営大江戸線の新江古田駅は中野区になっている。もう一駅池袋に近い隣駅の東長崎駅は豊島区で、いくつもの区が隣接した地区だ。
路上のゴミをやり過ごして線路沿いを桜台方面に進む。ゴミについてはまぁ仕方がない。
先月には東京メトロが駅構内のゴミ箱をすべて撤去したが、鉄道を舞台にした物騒な事件が続いているだけに安全面を考慮すれば仕方がないことかもしれない。スマホが普及する前、特に都内の電車内や駅のゴミ箱には新聞や雑誌が大量に捨てられていたのは、今になってみればもはや懐かしい光景だ。
駅や電車内で回収されたマンガ誌や週刊誌を駅の近くで安く売りさばいている場所があったことも思い出されてくる。マンガ誌などは発売当日のものが売られていたりすることも珍しくなかったようで、チェックが日課になっていた人々も一定数はいたに違いない。
もちろん商売としては違法であり(古物営業許可をとっていなければ)、知って利用している者もまた罪に問われかねないかもしれないが、今になってみれば懐かしい街の風景であった。そんな場所が今もどこかにあるのだろうか。
ともあれスマホの普及によって電車内の新聞や雑誌がこの10年で激減したことは間違いない。ゴミ箱のニーズも10年前からは大幅に低下しているのだとすれば、地下鉄のゴミ箱撤去は特に強引な荒療治というわけではなさそうだ。
移動する個人が出すゴミとしては今は新聞や雑誌よりも空いたペットボトルや缶ということになりそうだが、実は今の自分もトートバッグの中に少し前に飲み干した空のペットボトルが入っている。どこか捨てられそうな回収ボックスがあればいいのだが……。
ポイ捨てゴミは“現地調達”されたものだった
線路沿いを進み、西武池袋線の踏切にやってきた。渡った先には「江古田銀座」のアーチが見える。賑やかな商店街だ。踏切を渡って向かってみることにした。
路上にゴミを捨てる気持ちは知れたものではないが、少し考えてみると、当人が住んでいる場所の近くでは捨てたりはしなさそうだ。自宅から離れた場所で、そこで自分が“よそ者”だという感覚が少なからずあるからこそ、ゴミが捨てられるのだと想像できなくもない。
昨年の夏、コロナ禍の中で問題になったもののひとつに“路上飲み”があったが、都内の繁華街の路上で飲んでいた者のほとんどは郊外から通勤や通学で来ている者であり、付近住民ではないことは火を見るより明らかだ。そして“路上飲み”の後には酒の空き缶や空き瓶を悪びれることなく残していったりもする。
ゴミをポイ捨てする者が現場の付近の住民ではないことがなんとなくわかってくるわけだが、では捨てられるそのゴミはどこから来ているのか。捨てる者は付近の住民ではない一方で、ゴミとなっている物品はその現場の付近で調達されたものであることが最新の研究で報告されていて興味深い。捨てられるゴミは“現地調達”されたものだったのである。
ほとんどのゴミのアイテムは、誰かがそれらを購入した場所からほんの少しの距離で通りに行き着きます。言い換えればゴミの大部分は地元の供給源から来ています。この発見は都市が最終的に水と空気を汚染するプラスチックゴミを防ぐのに役立つ可能性があります。
一部の人々は、風、水流、またはその他の要因が都市部へゴミを移動させる原因であると理論付けています。しかし学術ジャーナル「Environmental Research」に掲載されたこの調査は、地域のゴミを詳細に調査した最初の調査であり、売り手から通りに移動する主な媒介は人間であることが確認されました。
※「University of California, Riverside」より引用
米・カリフォルニア大学リバーサイド校をはじめとする研究チームが2022年1月に「Environmental Research」で発表した研究では、1ヵ月に及ぶ調査を通じて、路上にポイ捨てされるゴミのほとんどは半径2マイル(約3200メートル)以内にその発生源があり、人手によって意図的に処分されない限りはずっとその場所に留まり続けることを報告している。
研究者チームはカリフォルニア州インランド・エンパイアの7つの地域でポイ捨てされたゴミを1ヵ月を費やして調査した。彼らはそのゴミの構成、メーカー、購入場所をレシートなどからできる限り特定してデータを収集したのだ。
分析の結果、ポイ捨てゴミの約60パーセントはプラスチックで、そのほとんどが食品関連であった。それに次いで多いのが紙巻タバコのフィルターや包装フィルムなどのタバコ製品である。そしてそれらのほとんどは半径2マイル(約3200メートル)以内にある店舗などで購入されたものであったのだ。
街の美観を著しく損ねるポイ捨てゴミの発生源が身近にあるとは認め難いのは人情というもので、どこか他所から風に飛ばされてやって来たのだと思いたがるのも止むを得ないともいえるのだが、実際にはポイ捨てゴミのほとんどは“現地調達”されたものだったのである。“路上飲み”で残されるゴミもまたその多くは現場近くのコンビニなどで購入されたものなのだろう。
公園など常に清掃を行き届かせていればゴミのポイ捨ては減るという主張もあるのだが、残念ながらきれいに保つことは再発防止にはなっていないという。観測の結果、一定の期間で一定量のポイ捨てゴミがコンスタントに蓄積されているということだ。路上のゴミの問題はなかなか一筋縄ではいかないようである。
IHコンロの一人焼肉店で「BBQ定食」を味わう
商店街を歩く。台湾料理の店もあれば和食の店もある。そのまま真っすぐ進んでも商店街が延びているが、和食店の角を右に折れても「江古田銀座」は続いているようだ。右折して進む。
路上のゴミということでは、20年以上前に訪れたフランス・パリのことが思い出されてくる。今はどうなのかわからないが、その時の滞在先の近くの路地は、午前中はまだ比較的きれいであったものの、時間が経つにつれてポイ捨てのゴミが増えて夜になるとちょっとしたカオスと化していたのだ。路上に犬のフンを見かけることもけっこうあり、実際に何度も踏んでしまった。そうしたことが続き、滞在中に靴を買い替えたことが思い出されてくる。
いったいどういうことなのかと最初は事情が呑み込めなかったのだが、夜遅くに宿泊先に帰って来た時に大きな清掃車両がゆっくりと路地を走っていて、数名の作業員が次から次へと路上のゴミを始末している現場を目撃したのである。つまりこの路地は通路であると同時に“ゴミ捨て場”だったのだ。
深夜の路上清掃の仕事は主に移民の人々が担っていると後になってから聞いたことがある。語弊を恐れずに言えば、ゴミのポイ捨ては移民の人々に仕事を与えるためでもあったのだ。
歩いていると千川通りに突き当たる。商店街は終わってしまったようだ。結局入る店を決められなかった。目の前には某牛丼チェーンの店があるが、牛丼という気分でもない。引き返すのも何だか面倒なので通りを左に折れて、ゴミひとつ落ちていないきれいな歩道を進む。
ビルの1階にあるガラス張りの店が見えてきた。中の様子がよく見え、お客がカウンター席で肉を焼いているのがわかる。見たところカウンター席しかなさそうで、どうやら一人焼肉の店のようだ。面白い。入ってみよう。
最初に自販機で食券を買うシステムだ。サーロインステーキなどいろいろあるのだが、初めてきたことだし、店の一番のおすすめである「BBQ定食」にする。
客席はコの字型の長いカウンターのみで、このご時世らしくパーテーションの仕切りがある。右端の席に着かせてもらい、店員さんに食券を渡す。
一人焼肉の店に多いガスコンロや七輪ではなく、なんとIHコンロがそれぞれのテーブルすべてに設置されている。このスタイルは初めてだ。
おそらく味噌だれで絡めた豚バラ肉と鳥もも肉が鍋に入って出てきた。細切りの玉ネギとニンジンもたっぷり入っている。続いてお盆に乗ったご飯とサラダ、みそ汁が提供される。
店員さんの説明通り、卓上に置かれた砂時計が終わるまでの3分間、何もせずにただ鍋に熱が加わるのを待つ。砂時計が終わりを告げたところで、トングで肉をひっくり返してまんべんなく焼きあげていく。
生焼けの箇所がなくなったところでトングで小皿にとってから肉を頬張る。独特のタレが肉と野菜のどちらにも合っていていて美味しい。バジル系の香草の風味がなんとなく感じられる。そして鶏肉も豚肉も分厚くカットされていて食べ応えじゅうぶんだ。
先ほどお店の人にご飯の盛りを聞かれて普通盛りにしてもらったのだが、食事を続けながら不図、壁に貼られている掲示物を見ると、ご飯は同じ値段で小盛、普通盛、大盛、特盛まで選べて、学生であればさらにその上の超特盛が可能であることが記されている。そしてその横には注文して食べきれなかった場合は“罰金”が課されるとの注意書きもあった。普通盛りにしておいてよかったと胸を撫でおろすばかりだが、たぶん大盛りを頼んだとしても最後まで美味しく頂けそうには思えてくる。しかしまぁ普通盛りでじゅうぶん満足だ。
ゴミのポイ捨ての一方、それ匹敵する“罪”ともいえるのが食べ残しであり食品廃棄(フードロス)だろう。その意味でも腹八分目のメニューを選んで正解だ。さて食事のほうもだいぶ食べ進んだ。ご飯の最後の一粒まで残すことなく美味しく頂いてからお店を出ることにしよう。
文/仲田しんじ