相変わらず世界はいろいろと難しい状況にあるが、この街はまだまだ活気に満ちている。寒空の下でも人々の行列ができている店がこの一帯では決して少なくないのだから――。
読書をした後に池袋・サンシャイン60通りを歩く
珍しく街中のカフェで2時間ほど読書をした。同じ場所に1時間以上いるのも気が引けるし飽きもくるので、カフェの“ハシゴ”もした。この一帯は安価なチェーンのカフェが多く読書をしたい時にはなかなか都合がよい。
今日は午後の用件を1つ済ませたところで当面の急用はなくなった。もちろん進めておいたほうがよい作業や考え事もあるのだが、せっかく訪れたちょっとひと息つける時間だ。バッグには文庫本も入っているし少しの間、自由に過ごさせてもらうことにした。
池袋・サンシャイン60通りを歩いていた。読書を終えて店を出るとすでに陽は暮れている。まだ夕方の6時だ。
読んだ本は仕事にはまったく関係のない――間接的に関係してくる可能性はないとは言えないが――小説である。前から読みたかったのだが、なかなか手が着けられず“積ん読”になっていた一冊だ。
普段ならその日の仕事が終るとどうしても「ちょっと一杯」が優先されてしまい、アルコールを摂取しつつ飲食していると腰を落ち着けて本を読む気持ちにもならなくなる。かといって個人的には夜の飲食ではどうしてもアルコールが外せない性質だ。したがって条件が揃った今日のような午後は願ってもない読書日和である。
サンシャイン60通りにいくつかある十字路を右に進む。この一帯はどちらに向かっても飲食店が多い。
もちろん“コロナ前”に比べれば人出はやや少ないものの、金曜日の夕方ということもあるのか、街はそれなりに賑わっている。
とはいえここ数年、ご存知のようにこのエリアも含めて池袋は寂しくなる一方だ。昨年8月に西口の老舗デパートが閉店したのは決して対岸の火事ではなく、東口のこの通りにあった大型アミューズメント施設が昨年9月に閉店し、その翌月には通りを代表する存在であった大型雑貨店が37年の歴史に幕を下ろした。
閉店の理由はそう単純なものではないとは思うし、必ずしもネガティブなことだけではないのだろうが端的に寂しい。特に某大型雑貨店では個人的にも何度も買い物をしてきた。何を買ったのか思い返してみると、その当時の記憶もまたよみがえってくる。
このエリアの代表的な大型施設がいくつかなくなってしまったものの、通りはそれなりに賑やかだ。読書のためにいったん保留した作業を部屋に戻ってから少しだけ進めるつもりなので「ちょっと一杯」は難しいのだが、どこかで何かを食べて帰ってもいいのだろう。じゅうぶんに読書を楽しんだし、これ以上“自由時間”を謳歌するのははばかられるものの短時間で食べて帰るぶんには問題ないだろう。
進行方向の左側に行列ができている店がある。某人気ラーメン店だ。この状況で、しかもけっこうな寒空の下で行列に並ぶという行為はなかなかバイタリティ溢れる行動ともいえるだろう。もう少し進んだところの右側にも行列ができている店がある。ここもラーメン店だ。
人々がこれほどまでに美味しいラーメンを求めているかと思うと並んでみたい気もしてくるが、読書をしたこともありこれ以上いたずらに時間を費やすわけにはいかない。店の前を過ぎて右折し、また別の路地へと足を向ける。しかし一帯の複数のラーメン店に人々が列をなしているということは、池袋の賑わいもまだまだ健在といえるだろう。
行列に並ぶことのできる人々は可処分時間に余裕があるということで、ある意味では羨ましい限りである。滞在時間が短いラーメン店であればある程度行列ができていても先行きが見えそうなものだが、たとえば郊外の人気レストランやカフェなどでは店によっては昼時から待合スペースに人がいっぱいになっているケースもあり、実際に何度か目撃したことがある。
こうした状況に直面すれば個人的には引き返す選択しかないのだが、少し様子を覗ってみるとそれでも待合リストに加わろうとする人は少なくなかったりもする。見たところ最低でも1時間は待ちそうであり、2時間であったとしてもおかしくなさそうなのだが、それでも待つという人は思っている以上にいそうで、少し驚いたことが何度かあったことを思い出す。
自由時間が多すぎると主観的幸福度が低下する
今回のコロナ禍では程度の差こそあれ行動が制限されている人々がほとんどだろう。ということはコロナ前よりも時間的には余裕が生まれている人々が多いのかもしれない。単純に考えて在宅勤務になれば通勤時間がなくなり、社内の付き合いなどもほとんどなくなるので自己裁量で使える時間が増えることは想像に難くない。
コロナ前であればいつも「時間がない」と不平を口にしていた人々の中には、当人にも意外なことにコロナ禍において逆に時間を持て余す思いをしている人が実は少なくないのかもしれない。
こうして増えた自己裁量が可能な時間を、これ幸いにとばかりにこれまでできなかったことに打ち込むことができれば間違いなく生活は充実するだろう。しかしその一方でまさに“時間を持て余す”人々もまた一定数出てくるのかもしれない。最近の研究でも多すぎる自由時間は少なすぎる自由時間と同様に主観的な幸福度を低下させていることが報告されている。予期せず与えられた多すぎる自由時間を有効活用できないことがわかるとかえってストレスになるというのだ。
3万5375人のアメリカ人に対する2つの大規模なデータセットと2つの実験で、個人が持つ裁量時間の量と彼らの主観的な幸福との関係を調査します。私たちは、裁量時間と主観的な幸福の間の負の二次方程式関係を見つけて内部で再現しました。
これらの結果は、裁量時間が少なすぎるとストレスによって引き起こされる主観的な幸福度が実際に低下する一方で、裁量時間が多すぎても主観的な幸福度が高くなることを継続的には意味しないことを示しています。
裁量時間が豊富にあることは、生産性の感覚が不足するために、主観的な幸福度の低下につながることさえあります。このような場合、裁量時間が多すぎることによる悪影響は、人々がこの時間を生産的な活動に費やすときに軽減される可能性があります。
※「APA PsycNet」より引用
これまでの研究で1日の内の自由時間が少ないほど幸福度が下がることが報告されているのだが、では潤沢な自由時間は幸福度の増大に直結するのだろうか? 米・ペンシルベニア大学ウォートン校の研究チームが2021年9月に「Journal of Personality and Social Psychology」で発表した研究では、調査と実験を通じて自分で自由に消費できる自己裁量時間が多すぎることで生じるデメリットを浮き彫りにしている。
研究チームはアメリカ人がどのように時間を消費しているのかについて2012年から2013年の間のデータと、1992年から2008年のデータを通じて3万5375人の自己裁量時間と幸福度の関係を分析した。
分析の結果、確かに1日の内の自己裁量時間が長くなるほどに幸福度が増しているのだが、それは2時間で頭打ちになり、幸福度は横ばいになっていることが突き止められた。そして自己裁量時間が5時間を超えるとむしろストレスとなり、幸福度が低下しはじめることがわかってきたのである。
なぜ自由時間が多すぎると幸福度が低下するのか。研究チームによればそれは増えた自由時間を非生産的な活動に費やしてしまうことで、主観的な幸福度が損なわれるからであると説明している。つまり時間をドブに捨てるような過ごし方をしてしまった場合、自己肯定感にネガティブな影響を及ぼすということだろう。皮肉なことにこれがストレスとなり幸福度が下がることになる。
実際に別の実験では余暇時間において生産的な活動(たとえば運動、趣味、ランニングなど)に従事した場合には、自由時間が長くなっても主観的な幸福度は低下しなかったのである。
つまり自由時間が増えたとしても、その時間に意味があると思えることに打ち込むことができれば何の問題もないが、潤沢な時間を無駄に過ごしてしまったと自覚している場合、主観的な幸福度はじわじわと低下していくことになる。
では増えた自由時間を使って店の行列に並ぶ行為をどうとらえればよいのか。並ぶと決めている以上は並ぶに値する価値があると評価していることになる。とすればそれは有意義な時間の過ごし方であり、これまでなら並びたくても並べなかった人々にはまるで“棚から牡丹餅”のような僥倖が予期せず訪れたということになるのかもしれない。
行列のできる専門店で牛肉フォーを堪能する
Uの字を描くようにしてサンシャイン60通りに接している別の路地を歩く。進行方向右側が建設工事中なので賑やかさは半減している。
この通りにも激辛で有名なラーメンチェーン店があり、タイミングによっては行列ができることもある。池袋のラーメン激戦区ぶりがよくわかるというものだが、ほかにも行列ができる麺料理の店がある。ベトナム料理である牛肉フォーの専門店だ。
雑居ビルの地下1階にあるこの店の存在は昨年から知っていて、一度入ろうとしたことはあったのだが、その時は地下に降りる階段にけっこうな人数が列をなしていて諦めたことがある。今にして思えば列に加わったとしてもそれほど待つことはなかっただろう。運よく今は行列できていない。これは入ってみるしかない。さっそく階段を降りてみる。
階段を降り切った入口近くにタッチパネル式の券売機があり、迷うことなく「牛肉のフォー」を選んで千円札を投入する。ちなみに100円増しで大盛りにできたり、パクチーなしのオプションもある。
予想していたよりもこぢんまりとした店内で、中央に細長いテーブルがあり、壁に沿ってカウンター席がグルっと店内を囲んでいる。複数人で来ても基本的には向かい合うことはなく並んで食べることになる。
店員の方に食券を渡すと好きな席に着くようにと告げられ、調理場に近い一番端のカウンター席に着かせていただく。カウンターのテーブルは水色で、質素だがなかなかお洒落な店内だ。壁には創業者の方らしき人物が写った古いモノクロ写真が額に入れられて架かっている。
卓上には3種類の調味料が用意されていて、ラミネート処理された説明書きが記されていた。説明を読んでいるうちにさっそくフォーがやって来る。
醤油ラーメン風のスープに器一面に青々としたネギとパクチーが敷き詰められている。卓上に置いてある金属製のレンゲを手に取ってさっそくスープを味わってみる。日本のプレーンな醤油ラーメンのスープと同じくらいあっさりしているが、肉を煮込んだ出汁のコクもしっかりあって美味しい。
フォーといえばふにゃふにゃした軟らかいライスヌードルが当たり前だと思っていたが、わりとしっかりした麺だったのは意外だ。中華麺やそばうどんに慣れている者にはこのくらい噛み応えのある麺のほうが食べやすいかもしれない。そして最初はネギに隠れていてわからなかったが、その下には牛肉がゴロゴロと入っていて予想以上の食べ応えがある。
一緒に運ばれてきたライムを途中で搾ったり、卓上の調味料を少しずつ試しながらどんどんと食べ進める。チリソースは説明書きに「結構辛い」とあるようにやっぱり辛く、口に入れて少しすると耳の後ろに汗が滴ってきた。しかし少量なのでまったく問題なく美味しく食べられる。
ともあれこの機会に食べられてよかったと思えるメニューであることは間違いない。自由時間は2時間を超えると楽しさが頭打ちになるということだが、さっきまで2時間の読書をしてきた自分には今のひと時はまだまだ楽しい。食べる楽しみはそれだけ根源的なものということになるのだろうか。楽しみ過ぎて幸福度を下げることがないよう、今夜はもう何も食べないことにしたい。
文/仲田しんじ