マスク越しにも楽しそうなのか伝わってくる。何が可笑しくてそんなに笑っているのかはわからないが、その笑いは腹の底から湧き上がっているピュアなものだ。唐突に聞かされたとしてもむしろ心地よい。
路上の笑い声を聞きながら大塚の街を歩く
中肉中背の20代くらいの若い男子が、ハンズフリー通話でなにやら話しながら歩いていた。話しているのはベトナム語らしき外国語で、何を喋っているのかはまったくわからない。不織布のマスクは片方の耳にかかった状態で揺れていて今にも外れそうだ。
路上で見かけても今はだいぶ慣れてきたが、街中を1人で歩きながらハンズフリー通話をしている様子は個人的にはまだやっぱり奇異に映る。どういった種類の話をしているのか知る由もないが、ある程度は重要な話であれば腰を落ちつけて話したほうが会話も進むというものだろう。そして往々にしてそのほうが話がまとまりやすかったりもするものだ。まぁ、会話の種類によっては短く終わらせたくない話もあるのかもしれないが……。
某所からの帰路、山手線を大塚駅で降りて駅の南口界隈を歩いていた。1年の内で最も日が短い時期だけにずいぶん前に日は暮れている。本格的な冬の寒さはまだかなり先という感じもするが、それでも日が沈めば空気はずいぶんと冷たくなってくる。街の人々の装いもコートなどのヘビーなアウターを着込んだ姿が目立つ。自分はまだ厚手のジャケットにニットだが、コートを着ざるを得なくなるのももうすぐだ。
駅前を横切る都電の線路を越えた先にある「サンモール大塚南商店街」の細い通りに足を向ける。時間も時間だし、どこかで「ちょっと一杯」してみてもよいのだろう。
商店街のアーケードに足を踏み入れようかという矢先、またもや歩きながらハンズフリー通話をしている人影を前方に認めた。若い女性が短い言葉を発しながらこちらに向かってくる。マスクはしているものの、受け答えをしている日本語のイントネーションの声が聞こえる。日本語だとしてももちろん話の内容はわかるはずもないが。
今日はやけにハンズフリーで通話する人に出会う。携帯電話を耳にあてて喋りながら歩く姿は、ひと目見れば電話をしていることがすぐにわかるというものだが、ハンズフリー通話は一見普通に歩いている者がいきなり喋り出したりするのが奇異に感じられる点だ。
電話の向こうの相手に相槌を打ちながらこちらに向かって歩いていた女性が、突然大きな声で笑い出したので驚く。笑いのツボにはまる話になったのだろうか。少し足取りが乱れるほどの爆笑ぶりで、まさに腹を抱えて笑っているという有様だ。
自分を含め、周囲にいた数人の注目を集めたことに気づいたのか、女性は笑い声を押し殺して足取りを整えていたが、それでも可笑しさは続いているようだった。
奇妙な状況を目の当たりにしたともいえるのだが、まさに腹の底からこみあげているようなその笑い声は聞いていて悪い気分にはならない。何がそんなに可笑しいのかわからないが、むしろ好ましい感じすらしてくる。本当に可笑しくて笑っている本物の笑い声だからだろうか。
その女性とすれ違う。マスク越しにも笑いを堪えているのが伝わってくる。我が身を振り返れば、最近こんなに笑ったことはあっただろうか。ある意味では羨ましい。ともあれ商店街を先に進むことにする。
腹の底から笑っている笑い声には好感が持てる
入り組んだ路地に飲食店が密集しているエリアに差しかかる。「ちょっと一杯」の人々も多く、そう思っている者からすれば店はよりどりみどりである。よさそうな店に入ってみよう。
おそらく店を出たばかりのような、いずれもスーツ姿の4、5人のグループとすれ違う。歩きながら談笑しているようで笑い声が聞こえてくるが、それは先ほどの女性のものとは大違いである。まぁ当然ではあるが……。
同じ笑い声でなぜこうも受ける印象が違ってくるのか。最新の研究では、我々は笑い声からかなりの情報を瞬時に汲み取っていることが報告されていて興味深い。我々は笑い声から、それが腹の底からの笑い声なのかどうか、そして笑っている者が自分が属している文化グループであるのかどうかをすぐさま識別しているというのである。
重要な違いは、自然に出る笑いと自発的な笑いの違いです。自然に出る笑いは通常、たとえば陽気なジョークに対する制御されていない反応であり、偽造が難しい音響機能が含まれています。
自発的な笑い声は、丁寧な合意を伝えるなどのより意図的なコミュニケーション行為を反映していて、たとえば上司からよく見られたいがために、意図的に音声出力を調整することによって生成されます。
さらに、笑いのような感情的な表現スタイルは、文化的グループ間で体系的に異なります。これらの違いはリスナーにとって注目に値するものであり、他の文化グループと比較して、自分の文化グループの個人によって生成された音声表現からの感情を知覚者がより正確に認識できるようにします。
※「University of Amsterdam」より引用
オランダ、アムステルダム大学をはじめとする合同研究チームが2021年11月に「Philosophical Transactions of the Royal Society B」で発表した研究では、実験を通じてリスナーは笑い声をほんの少し聞くだけで、それが自然に出た笑いなのかそれとも自発的な笑いなのか、さらに笑っている人が自分の文化的グループであるか別の文化的グループであるかを検出できることが示されている。
オランダ人と日本人が400人以上参加した実験では、オランダ人と日本人の録音された短い笑い声の音声を次々に聞いてもらい、次の3つの判断基準でそれぞれを評価した。3つの基準は以下の通りだ。
●笑っている人が自分の文化的なグループ内かグループ外か
●笑いが自然発生的か自発的か
●各笑い声のポジティブ度の評価
収集したデータを分析したところ、リスナーはほんのわずかな笑い声から、それがオランダ人のものなのか日本人のものなのかをほぼ正確に識別できていることが突き止められた。加えてその笑い声が自然に出た笑い声なのか、自発的な笑い声なのかについても正確に識別できていることがわかったのだ。
オランダ人は同国人の笑い声を日本人の笑い声よりも好ましいものであると評価する傾向が高かったが、日本人にはその評価にほとんど違いはなかったという点は興味深いことかもしれない。
さらにそれらの笑い声がどのように受け止められているのかについては、自然に出た笑い声のほうが自発的な笑い声よりも好ましく感じられていることも浮き彫りになった。つまり腹の底から笑っている笑い声には好感が持てることになる。先ほどの女性の笑い声が好ましく感じられたのも、それが本当に可笑しくて自然に出てしまった笑い声だからなのだ。
梅割り焼酎をチビチビ飲みながらもつ焼きを頬張る
どこかの店に入ろう。串揚げの店やたこ焼きの店など、よりどりみだりなのだが、進行方向にあるもつ焼きの店に視線が誘われる。もつ焼きでいいのだろう。入ってみたい。
ほどよいお客の入りでカウンターは埋まってはいない。お店の人に促されてカウンター席に着く。
この店はチェーンで、まだあまり店舗数がない時代に新井薬師にある店には何度も行っていた。その当時、仕事で西武新宿線を使うことがけっこうあり、仕事帰りにタイミングが良ければよくその店で飲んでいたのだ。
そしてこの店に来たら必ず注文するのが「梅割り焼酎」である。コップになみなみに注がれたキンミヤ焼酎に、梅シロップを少しばかり加えた酒だ。25度の焼酎をほぼ生のまま飲むということで、当然ながら酔いは早くなる。そうしたこともありこのお酒に関しては1人3杯以上の注文はできない。
さっそく梅割り焼酎にハイボールを同時に注文する。1人で来ていることだし、お酒に関してはこれでじゅうぶんだ。焼酎とハイボールを交互にチビチビと飲もうという“作戦”だ。
さっそくお酒が運ばれてきた。このタイミングでもつ焼きを計6本に、箸休め的な大根酢漬けときゅうりを注文する。
梅割り焼酎のコップに口を近づけてひと口啜る。なみなみに注がれているので最初はコップを手に持ってはならない。上半身を突っ伏して自分の口で迎えに行くのである。梅シロップの風味でまろやかにはなっているが当然ながら強い酒だ。そしてこの最初のひと口でこの店にやって来たという実感がさらに湧いてくる。
背後から笑い声が響いてきた。後ろのテーブル席で飲んでいるサラリーマンらしき3人組のグループ客からのものだ。抑制の効いた静かな笑い声で、さっきの女性のような腹の底からの本物の笑い声ではないことはすぐにわかる。話の流れで誰かがちょっとしたジョークなどを挟んだような感じで、周囲はその発言へのリアクションとしてある意味では自発的に笑っているということになるだろう。一緒に飲んでいる時点で、この3人組には笑う準備ができているともいえて、しかるべきタイミングで各自が積極的に笑いを発していると解釈することもできる。
もつ焼きなどがいろいろとやってきた。さっそくありつくことにしよう。焼きたてのうちに食べてしまいたい。
決して早食いをするほうではないが、1人で飲んでいれば誰かと話しているわけではないので、それなりのペースで酌が進む。チビチビと飲む梅割り焼酎は1度に口に含む量は少量だが、もつ焼きを頬張るペースに合わせてそれなりにピッチが早まってくる。そこでハイボールと交互に飲むことで、ストレート焼酎による酔いを遅らせることができるという手筈だ。
またもや背後から笑い声が聞こえてきた。楽しく飲んでいるのは羨ましい限りだが、相槌の意味も含んだマイルドな笑いなので、特に好ましくは感じられない。
たまにテレビなどで漫才などのお笑いの劇場中継を目にすることがあるが、客席からの笑い声が響いてきても何が可笑しいのかよくわからないこともある。先ほどの研究からすればそれはじゅうぶんにあり得ることで、偶然にテレビで目にした自分とは違い、会場に来ている観客はそもそも笑うためにやって来ているのである。いわば笑う気が満々なのだ。
だがこうした“笑う気満々”の笑いは、はたから聞いていると笑いたくて笑っている自発的な笑い声であることがすぐにわかる。したがってそれほど共感はできないものにもなるのだろう。しかし劇場の客席の一員になればその臨場感に圧倒され、あまり可笑しくなくともつられて笑うことがあるのかもしれないが……。
笑いたくて笑うのは当人の自由だが、その場の雰囲気などで笑いを強制されたくはないものだ。さっきの女性のように、腹の底から笑える時がいつかやってくることを、頭の片隅で期待しておくことにしようか。
文/仲田しんじ