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死神は「神」なのか?デスノートの中に「般若心経」を見た!

2021.09.02

【坊主の知られざる話】デスノートのなかに『般若心経』を見た

『デスノート』とは2003年から2005年にかけて週刊少年ジャンプに連載された大ヒット作品である。アニメや映画化もされ、大きな社会現象となり、今ものその人気ぶりは衰えない。

私はリアルタイムの連載で楽しんでいた当時の読者だが、改めて、僧侶の視点から読み返すと、思わず仏教で語りたくなるポイントがあちらこちらに存在しているのだ。そこで、今回はその中でも特に印象的な部分を選び、「仏教的な視点」で『デスノート』を読み解いてみた。なお、本文には重大なネタバレも含んでいるため、本編を未読の方はご注意いただきたい。

 「名前を書いたら死んでしまうノート」は書く呪い?

まず『デスノート』といえば、作品のタイトルにもなっている、「名前を書かれると死んでしまうノート」である。名前を書かれた人間がなぜ死んでしまうのか、詳細な仕組みは説明されていないが、人間の理屈で考えるのは野暮であろう。死神のノートだから名前が書かれた人間が死んでしまう、理由はこれで十分だ。

私はこのデスノートには呪術的なニオイを感じている。相手の本名と顔がわからないと効果がないというルールは「呪のろい」を彷彿とさせる。本来の持ち主である死神はその目(通称:「死神の目」)のおかげで相手の名前よ寿命がたちどころに解るため、無作為にターゲットを選んでいるようだが、普通の人間はそうはいかない。相手の顔と名前を知る必要がある以上、自ずとそこに感情が芽生えるものだ。昂ぶった感情で死神の力をもって相手の命に干渉する。人が神仏の力を借りて怨敵を呪うのは、伝統的な呪術の方法である。

もともと「呪じゅ」は「陀羅尼だらに」を表した言葉であり、「陀羅尼だらに」は「ダーラニー」というサンスクリット語が中国で音写されたものだ。「ダーラニー」は、「神仏の神秘的な力を持つと信じられる言葉、その中で比較的長めのもの」を指す。なので、本来、「呪」には私たちがイメージする禍々しい意味はない。あくまでも神秘の力だ。

日本においてもこの人智を超えた神秘の力というのは重要視されてきた。仏教伝来初期の時代では、鎮護国家として国を安定させるために神仏の力が利用され、平安中期には病気治療や調伏といった現世利益のために密教の修法が行われるようになった。かの空海が呪詛合戦を繰り広げたと言う伝説も残っている。作中では夜神月が暗い部屋で一心にノートに名前を書き連ねているが、その様子はまるで呪術の儀式のようだ。平成の呪術師は呪いの儀式をポテチ片手にやってのけるのだ。

もともとの「呪」に禍々しい意味がなかったように、神仏の力そのものには善悪の違いがない。というか、何によって善悪を定めるかは非常に難しいのだ。一方で善とされたことも反対の立場になれば悪となる。一方で神と崇められた存在も片方では悪魔と恐れられる。善悪は大きすぎるテーマであるため、この場ではこれ以上は踏み込まないが、邪まな使い方なら共通のイメージを持てるだろう。単純な話、自分の欲望を満たすために神仏の力を使えば、それはあまり立派な使い方にはならないことは大方の想像が付く。

『デスノート』の本編は108話(作中の数え方では108page.)で完結するのだが、これは作者が意識した数だという。108とは、もちろん我々の持っている煩悩のそれだ。

作中ではデスノートの使用者は複数現れるが、そのほとんどが私利私欲のためにノートの力を使っていた。

『デスノート』の物語は、死神リュークが人間界に自身のデスノートを落としたことから始まるが、「デスノート」も「呪」と同じように、禍々しくしてしまっているのは、その力を使う我々人間に原因があるのだ。番外編でリュークが「どんな使い方であれデスノートを使った人間は不幸になるって事か」と呟いているが、わざわざ「人間は」と言っていることがなんとも皮肉めいている。

死神は「神」なのか?

そうなってくると気になるのが死神の存在だ。作中では人間界と死神界は明確に区分されており、死神は人間界との行き来やデスノートを使用して命を奪うなど、人間界に干渉することが可能だが、人間の力は死神界に及ばない。どうやら死神界は人間界より上位に位置しているようだ。

 ここで連想されるのが、「六道」の世界観である。六道とは、私たちが自分自身の行いにより生死を繰り返す六つの世界である。

1.地獄道・・・激しい苦しみの世界

2.餓鬼道・・・欲望に振り回されて満足を知らない貪りの世界

3.畜生道・・・知性がなく、力の強いものに支配される世界

4.人間道・・・人間の世界

5.修羅道・・・絶えない争いの世界

6.天道・・・天人の世界

私たちがいるのは、人間道になるわけだが、ここで注目したいのは天道である。天と聞けば、いわゆる天国のようなイメージが浮かぶだろうが、六道における天はそうとも限らない。

この六道の世界は全て迷いの世界であり、苦しみが存在しているのだ。もちろん天には天の苦しみが抜かり無く用意されている。

天人の世界も私たちの世界に比べればずいぶんと良い世界ではあるようだが、ここでも寿命があり、必ず命の終わりが訪れる。しかし、天道に生まれると、「今の最高の状態」が永遠に続くものと勘違いし、まったく自己を省みなくなってしまうのだ。その結果、寿命が尽きる間際にようやく怠惰に過ごした日々を反省するが、時すでに遅く、快楽に耽った一生を後悔しながら死んでいくことになる。解りやすく言えば、宿題をほったらかしにしている夏休み状態だ。その時は楽しいのだが、あとで地獄を見ることになる。

リュークの話では、死神界の死神も御多分に漏れず、博打に浸り怠惰で無気力な生活を送っているという。彼が人間界にノートをもたらした理由が「退屈」からの暇つぶしというところからも、死神界の頽廃的な空気が伺える。この描写はまさに、天道そのものである。どうやら死神も全知全能の神というわけではなく、我々と同じように、生きることに苦しみを感じている、悩める存在であるようだ。『デスノート』の世界に六道があるかどうかはわからない(むしろ否定的ですらある)が、仏教のフィルターで考えると、死神達は天道の住人であり、女性型の死神レムはまさかの「天女さま」ということになる。

死んだあとは「無」になるのか

『デスノート』で最も議論が別れるのが「死後の世界について」ではないだろうか。リュークは死後について、「デスノートを使った人間が天国とか地獄に行けると思うなよ」と思わせぶりな発言や、「天国や地獄は人間が勝手に想像しているだけで存在しない」という死後の世界については否定的な意見を述べていた。ただし、これについてはリューク個人の哲学であるようにも思える。作中、死神も死を迎えることが判明しているのだから、死神にも死後があるということだ。そうであるなら、生きているリュークは死後の世界について、本当は知らないとも考えられる。

具体的な死の瞬間の描写としては、クライマックスで夜神月が息絶えた場面が、見開きのベタ表現され「無」が示唆されていた。

私はこの天国も地獄もない闇にどこか寂しさを覚え、自分の信じている死生観との差異から非常に戸惑いを感じた。人は死んだらどうなるのか、僧侶として生きている今も夜神月の死に際が問い続けてくる。生れ変り輪廻を繰り返すのか、それとも「無」になってしまうのか。輪廻のごとく思考がグルグルと行ったり来たりする中、あるお経がこの「無」の表現とピタリと一致したのだ。そのお経は・・・みなさんおなじみの『般若心経』である。

『般若心経』の肝は何と言っても「空くう」である。かの有名な「色即是空しきそくぜくう」がズバリこれだ。この「色」とは、私たちが目で見て感じる「いろ」ではない。いや、「いろ」だけではないと言うべきか。「色」とは形があり変化する物質現象それ全体を指す。つまり、私たちが認識しているモノは、形や匂いなど、さまざまな要素が集まって一時的に作られているものであって、その要素が欠ければたちどころに崩れてしまう。あらゆるモノは絶えず変化を続け、永遠不滅の実体を持たないことを「空」という。もちろん私たち自身も「空」になる。血や肉、感情が集まって「私」という何かを一時的に成しているだけなのだ。

キラという存在もまた、人間・夜神月や死神のノートなどの要素が集まった「空」の神にすぎなかったの。夜神月がデスノートを拾った偶然も、キラの目指した新世界も、過ぎ去ってしまえば全てが「空」であった。まさにキラの波乱万丈なストーリーはそれそのものが「色即是空」を体現しており、あのベタは消滅ではなく、あるべき形の「無」に帰っていったのだ。

「空」の先にあるもの

事柄の「有無」を判断基準にしている私たちは、「無」と聞くと自然と物事の終焉を連想するが、それはそうとも限らない。「無」もまた連綿と続く変化の一つであり、その先がまた続いていく。デスノートの力も今度こそ人々を救うものになるかもしれない。

冒頭「デスノート」の力の理由を「死神のノート」という私たちの常識を超えた神秘性に求めた。同様に『般若心経』の持つ力の源も、人智を超えた神秘の力である。

「デスノート」がノートに名前を書くことでその力を発揮するのなら、『般若心経』は読誦することで大いなる功徳があるという。

作中、Lがキラに敗れ、生き絶える瞬間のセリフが

「やはり・・・私は間違ってなかった・・・が・・・ま・・・」

であり、最後に彼がどんな言葉を口にしようとしたのかは定かではない。ファンブックによると、あえて明らかにせず、読者に想像の楽しみを残したそうだ。ならばきっと、こう言いたかったのではないか。

「やはり・・・私は間違ってなかった・・・が・・・摩訶般若波羅蜜多・・・」

Lのキャラクターからはちょっと想像できないが、死の間際になって、世の無常を儚み、思わず『般若心経』を口にしたのではないかと、思わず妄想してしまった。

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文・イラスト/光澤裕顕(みつざわ・ひろあき)

著書『生きるのがつらいときに読むブッダの言葉』。浄土真宗(真宗大谷派)僧侶。福岡県八女市覺法寺衆徒。1989(平成元)年3月生まれ。新潟県長岡市出身。京都精華大学マンガ学部マンガ学科卒業。僧侶として仏道に励むかたわら、マンガ家・イラストレーターとしても活動中。

編集/inox.

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