意外だ――。なぜこんな時に唐突に頭の中でこの曲が鳴り響くのか。サビの部分を口ずさみそうにもなる。もし鼻歌を唄ってしまってもマスクをしているので、人に聞かれるリスクは少なそうだが……。
唐突にヒットソングが頭の中で流れはじめる
午前中に中野区某所での用件を終え、帰路は久しぶりに西武新宿線に乗り下落合で降りた。少し歩こうと思ったのだ。先日に梅雨入りしたばかりだが今日に限っては快晴の天気だ。
北口を出ると正面に並んで建つ雑居ビルの飲食店などが目に入るが、駅前の商店街と呼べるほどではない。基本的に辺りは都心の住宅街だ。しかしこんな機会でもなければ来ることもないので、少し辺りを歩いてみたい。
駅を出て右に進む。左手のビルの1階にはいかにも昭和の頃からやっていそうなレトロな喫茶店が店を構えている。お昼時ということでランチメニューもあるようだ。そういえばどこかで何かを食べてもよかった。
またしても頭の中で曲が流れはじめる。韓国の某男性アイドルグループのヒットソングだ。この曲が特に好きというわけではないのだが、最近になってふとした時に脳内で延々とループしはじめるのだ。
その理由は簡単で、仕事中はたいていラジオでAFNの放送を流しっぱなしにしているのだが、最近はよくこの曲がかかっていて何度となく聴かされているのだ。ある意味で耳にこびりついてしまっているのである。
妙正寺川の短い橋を渡る。しかしどう見ても完全な住宅街で、特に見て回るところもなさそうだ。左折して川沿いを進むことにした。
その時々のヒットソングが耳にこびりつき、脳内で延々とループすることは珍しくないことではある。英語ではこの現象をイヤーワーム(earworms)と呼んでいる。「耳の虫」とは言い得て妙だ。
川沿いを歩くと2車線の車道に突き当たる。横断してさらに川沿いを進むこともできるが、左に折れて駅の方向へ引き返すことにした。再び妙正寺川の橋を渡る。
イヤーワームが心地よく感じられるのであれば何の問題もないが、たいていの場合は自分の意思に関係なく突然始まるので少し気味悪くも感じられることがある。しかしそうは言っても心底嫌いな曲が脳内でよみがえってくるとは考えにくいので、おそらく潜在意識のレベルでは自分にとって口ずさみたくなるような好ましい曲なのだろう。
タイミング悪く踏切で足止めされてしまう。踏切の向こうにはいくつかの飲食店が見える。直進した先には食堂とタピオカの店が並んでいて、通りの反対側にはそば店や焼き鳥居酒屋などが見える。その先にも店がありそうなので、踏切待ちの間に車道を横断することにした。
イヤーワームと懐かしい思い出の関係
イヤーワームになった曲にこれまでどんなものがあったのか、思い出してみるとまぁ続々といろんな曲が思いつく。CMで使われた曲も多いし、映画の主題歌も多い。そしてそうした曲を思い出すと、その当時の記憶も一緒によみがえってくる。
某女性アイドルの曲を思い出すと、高校生の頃の夏休みに訪れた海水浴場の光景が一緒に思い出されてくる。ビーチでこの曲が繰り返し流されていたのだ。懐かしいの一言だ。
耳にこびりついて延々と頭の中でループするイヤーワームだが、懐かしい思い出が伴ってくるとすれば悪いことばかりではなさそうだ。最新の研究でもイヤーワームは単に煩わしいものではなく、楽曲とそれ関連する物事の記憶を形成するのに重要な役割を果たしていることが報告されている。
「私たちの論文は、あなたがその歌を頭の中で演奏していて、記憶の詳細を明確に思い出していなくても、それはそれらの記憶を強化するのに役立つことを示しています」と(研究チームの)ジャナタは言いました。
「私たちは通常、イヤーワームを私たちの制御を超えたランダムな邪魔物と考えていますが、私たちの研究結果はイヤーワームが長期記憶の中に直近の経験を保存するのに役立つ自然発生の記憶プロセスであることを示しています」と(研究チームの)クビットは言いました。
著者らは進行中の研究が、認知症やその他の神経障害に苦しむ人々が出来事、人々、日常のタスクをよりよく憶えるのを助けるための非医薬品的な音楽ベースの治療法の開発につながることを望んでいると述べました。
※「UC Davis」より引用
カリフォルニア大学デービス校の研究チームが2021年6月に「Journal of Experimental Psychology」で発表した研究では、実験を通じてイヤーワームが楽曲と関連する物事の記憶を保存するのに役立つことが示されている。
実験の1つでは参加者は初めて聴く楽曲とムービークリップを同時に繰り返し視聴し、数週間にわたっていわば人工的にイヤーワームを形成した。
参加者は視聴中にムービークリップの内容をできるだけ詳細に記憶することを求められ、実験以外の日常生活でどの程度イヤーワームが発生したのかについても記録しておくように指示された。
こうして収集したデータを分析した結果、頭の中で曲が頻繁に演奏されるほど、その曲に伴うムービークリップの記憶はより正確になってることが示される結果となった。
静かなビーチでの海水浴の思い出は何か決定的な出来事でもない限りそのうち忘れてしまうかもしれないが、もしその時の流行歌がイヤーワームになるほど繰り返し流れていたなら、それが故に後からでもすぐに詳しく思い出せることになる。
焼肉ランチを食べながら『ジンギスカン』を思い出す
上りと下りの2本の電車が通り過ぎた後、ようやく遮断器のバーが持ち上がる。時間がかかったぶん歩行者も増えている。
ひとまずどれかの店に入ろう。今はそばという気分ではない。その2階にはネパール・インド料理店があるようだ。インド系のカレーも好きだが今はいったん保留したい。
その隣は焼肉店だ。店先の黒板にランチメニューが記されている。ここでいいだろう。さっそく引き戸を開けて店内に入る。
調理場を囲むようにカウンターテーブルがあり、ロースターがついた4人掛けのテーブルが3つ並んでいる。奥はお座敷になっているようだ。街の食堂や居酒屋としては普通の広さだろうか。
テーブル席に案内され焼肉定食を注文する。チゲ鍋や牛タン丼など気になるメニューもあったが、初めての店だけにここは焼肉定食の一択だ。
背後のテーブルには明らかに昼休み休憩中の作業着姿の男性の4人組がいた。あらかた料理は食べ終わって少し雑談しているようだ。この近くにある会社の人々なのだろう。
焼肉定食がやってきた。肉はロースだ。ご飯にみそ汁、サラダに冷奴とカクテキがつく。昼に軽く食べるぶんにはじゅうぶんだ。店の人がすでに点けてくれたロースターの上にさっそく肉を乗せていく。
焼肉で思い出したが、一時期脳内をグルグル回っていた曲には『ジンギスカン』もある。ドイツ語の歌なので歌詞の意味はさっぱりわからなかったが、あの「ウッ、ハッ」という掛け声と、「ジン、ジン、ジンギスカン」のサビの部分が一時期脳内でループしていた。
残念ながらこの曲に直接関係した思い出はないのだが、この曲を聴けばかつて北海道・旭川で食べたジンギスカンが思い出されてくる。某有名店の支店に1人で入ってマトンとラムのどちらも食べたのだが、親切にも店の人が焼いてくれて美味しくいだいたことが思い出されてくる。
その時の旅では旭山動物園に行ったりといろんなことをしていて、ほかにもいろんなものを食べたが真っ先に思い出すのはやはりジンギスカンだ。意識するしないに関わらず“ジンギスカン”に紐づけられたこの旭川での体験を何度も思い返して記憶が強化されているのかもしれない。
肉をどんどん焼いていく。ともあれ今日も美味しい昼食にありつくことができた。これからまだ仕事が残っているが、きっと焼肉パワーで乗り切れるだろう。
文/仲田しんじ