iPhoneで先輩僧侶の読経を録音して聞きまくる現代的練習法【坊主の知られざる話】
「お葬式にきたお坊さんの読経が下手だった!」
葬儀会社はたびたびこのようなクレームを受けているらしい。
読経が下手な僧侶は影でウワサされてしまうこともあるとのこと。
仏教教団が行っている状況把握調査でも、僧侶に期待する事として「読経」のクオリティーは上位になっている。人柄や知識の豊富さ、質素な生活など世間が僧侶に求めるハードルは高い。しかし、一般の方が仏教に触れる機会は圧倒的に葬儀が多く、つまり、「読経」の質は僧侶の評価に直結することなのだ。
実は「お経」じゃなかった!?
皆さんは僧侶が読んでいるものは全て「お経」だと思っていないだろうか。
実はコレ半分正解で半分不正解。もちろん「お経」を読むのだが、「お経」だけを読んでいるわけではないのだ。
そもそも「お経」とはブッダの言葉を弟子たちが編纂したものだ。この最初の「お経」は古代インド文字で書かれており、これが大陸に渡り漢訳された。
「西遊記」の三蔵法師が天竺(インド)を目指した目的こそお経を手に入れることである。仏教は日本へ大陸を経由して伝わっているので、私たちは「お経」に漢字のイメージがあるのだ。
「お経」に触れた僧侶たちは様々な解釈を加えて「お経」から多くの音を生み出した。例えば耳馴染みのある「南無阿弥陀仏」は正確には「念仏」という。
「南無」とは古代インド語で「身をまかせる/委ねる」という意味。「阿弥陀仏に委ねる」ために仏を念ずる、自らの信仰告白なのだ。
さらに、仏教に出会った感動を当時の流行歌で読んだ「和讃」や「真言(マントラ)」をとなえるお坊さんもいるし、太鼓をドンドンと叩くときもあれば、ほら貝が鳴り響いたり、さらにアコーディオンを使った現代風なお勤めがあったり、実に様々だ。
※ただし、この場ではこれら全般含めて「読経」と表現する
ええ声の生んだ悲劇
ええ声の読経は聞いていて心地が良いし、何となく功徳がありそうな気がする(声の質で功徳が変わることはないだろうが)。今よりも娯楽の少なかった時代、僧侶の「声」は人々の楽しみの一つであった。
かの後白河法皇は「今様合(いまようあわせ)」という歌読みの催事を行い、僧侶を含めた歌の名手を集め大いに楽しんでいたのだ。ええ声の僧侶は名声を得て後世にまで語り継がれているのだが、こんな悲劇も残っている。
住蓮坊と安楽坊の悲劇
昔、法然の弟子に住蓮と安楽という若い僧侶がいた。彼らは美声の持ち主で都の人々はその美しい歌に魅了されていた。そんなある日、時の権力者である後鳥羽上皇のお気に入りの女官である鈴虫・松虫の二人が、上皇の留守中に住蓮と安楽のもとを訪れる。
住蓮と安楽の美声にすっかり魅せられた鈴虫と松虫はなんとそのまま出家をしてしまったのだ。出家してしまえばいかに上皇といえど容易く会うことは叶わない。お気に入りの女官を失い、激怒した後鳥羽上皇は住蓮と安楽に密通の嫌疑をかけ、二人を斬首の刑に処してしまったのだ。
お坊さんは最初からお経が読めるのか
このようにさまざなエピソードであふれているお経だが、僧侶の優れた「読経」は鍛錬の賜物である。お坊さんだからと言って最初から難しいお経をスラスラと読めるわけではない。
我々の代ともなると伝統的な節回しよりもJ―POPの方が耳に馴染んでいる。だからとにかく練習である。定番の練習方法は師匠を見つけて習うこと。
寺生まれだと身内から教わることも多い。また、本山やお寺が共同で勉強会を設けていので、そこに参加するのも手だ。もちろん自主練習も欠かせない。ええ声の「読経」は簡単ではないのだ。
しかし、我々にも生活がある。なんやかんと忙しい毎日に腰を据えて「読経」の練習を続けることはかなりの本気度が求められる。そこで忙しい現代人僧侶たる私が思いついた勉強法は「iPhoneに先輩僧侶の読経」の音源を入れて聞きまくるというものだった。
なかなかツテのなかった私は友人に頼み込んで、上手いと評判の先輩僧侶の読経音源を入手。通勤中など様々な場面でイヤホンからお経を流し続け耳コピに励んだのだ。スティーブ・ジョブスは禅に傾倒しいたようだが、まさかアップル製品に「お経」が入れられるとは夢にも思わなかっただろう。テクノロジーと伝統がデバイスの中で融合したのだ!
まとめ
さて、その成果はと言えば・・・あまり芳しくは無かった。私がコテコテの音痴といのもあったのかもしれないが、音の上がり下がりや声の張りなど間違いだらけだった。伝統のワザは片手間でマスターできるほど甘いものではないと痛感する結果となった。
古典的かも知れないが、やはり信頼できる人から直接教わることに勝るものはないのだ。僧侶の読経は師から弟子へと脈々と受け継がれる歴史の伝承そのものである。
読経=我慢の時間なんて言われるが、千年以上の歴史を持つ「読経」も能や歌舞伎に匹敵する立派なクールジャパンである。「読経」の場に縁があったときは、どうか伝統の風に耳を傾けてみてほしい。我々僧侶も、少しで大切にしてきた伝統を受け継ぐべく必死なのだ。
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文・イラスト/光澤裕顕(みつざわ・ひろあき)
著書『生きるのがつらいときに読むブッダの言葉』。浄土真宗(真宗大谷派)僧侶。福岡県八女市覺法寺衆徒。1989(平成元)年3月生まれ。新潟県長岡市出身。京都精華大学マンガ学部マンガ学科卒業。僧侶として仏道に励むかたわら、マンガ家・イラストレーターとしても活動中。
編集/inox.