お坊さんはブルーハーツがお好き?【坊主の知られざる話】
最後に叫んだのはいつだろう?
心の底から叫んだのは。マスクばかりしていたら、いつの間にか大きな声の出し方を忘れてしまっていた。
病気にならないようにマスクをしているはずなのに、心の方はまるで元気がない。
そんなときでも、マイクロフォンの中から必死に励ましてくれる人たちがいたことを思い出した。伝説のロックバンド「ザ・ブルーハーツ」。
彼らのストレートな叫びは、今、改めて私たちの心に深く突き刺さる。こんな時代だからなのか、お坊さんの中でも「ブルーハーツが好きだ」と言っている人が増えた気がする。
ブームの夜明け
私はお坊さん界隈でブルーハーツが再燃したきっかけは、「お寺の掲示板」であると見ている。
「お寺の掲示板」とは寺の入り口に置かれている「グッとくる言葉」が書かれているアレだ。
これまでは、ブッダや有名な僧侶の金言を掲示することが常だったが、ここ最近はマンガの名言や歌詞を取り上げることも多い。そんな中、ブルーハーツも取り上げられようになった。
すると、どうだろう・・・改めて歌詞を見返すと、実直な心の声に溢れており金言の宝庫。多くの僧侶がブルーハーツを見直すきっかけとなった。
心に刺さるブルーハーツとブッダの教え
ではここで特にグッときたワンフレーズを紹介したい。
名曲「情熱の薔薇」である。
「見てきた物や聞いた事 いままで覚えた全部
でたらめだったら面白い そんな気持ち分かるでしょう」
仏教の重要な問いに「ものの見方」がある。つまり「物事の本質を見抜けているのか、正しく見ているのか」という問いかけである。
これを「正見(しょうけん)」という。この正しい見方に基づいた実践が悟りを得るためには必須なのだ。
いつの時代も僧侶にとって「正しく見る」ことは必ず向き合う課題であり、困難なことでもあった。いつだってそこに「常識」という壁が立ち塞がったからだ。「常識」は時代や環境そして人によっても大きく異なる。
それだけ曖昧なものなのなのだから、「常識」が「正しい」とは限らない。それでも疑うことが困難なのが「常識」なのだ。
そのため、高僧と呼ばれる人物は「非常識」とも言える行動を取っている。仏教の原点、ブッダは王子の身分でありながら国や妻子を捨てて出家してしまったし、浄土真宗の開祖・親鸞は僧侶でありながら肉食妻帯を行っていたという。
これらは「非常識」ではあるが、「真実」に近づくために苦渋の選択の末に行われたことなのだ。
もともと私たちは「真実」を追い求める性質があり、虚偽偽りに対して違和感を覚えるのだ。だから「常識」と「心の底で感じている正しさ」の間を揺れ動き悩む。
「でたらめだったら面白い」と少し茶化した表現になっているが、「でたらめだ」と言い切らないところに現代社会で生きるジレンマを感じる。
仏教もブルーハーツもロックだった
たとえ「真実」だと解っていたとしても、我々は「常識」を捨てることができるか、明日にも会社を辞めて出家することができるのか?
答えは聞かなくても分かっている。それは僧侶も同じ。仏教界の「常識」にがんじがらめになっている。
だから真っ向から「常識」に挑んだ仏教もブルーハーツもやっぱりロックで、ロックになれない僧侶もその曲を聴いて目頭を熱くしている。
ロックを卒業してしまった私たちに大切なのは「常識」への違和感を持ち続けることだ。
なぜかって?
答えは簡単、その方が人にやさしくなれるから。やさしさの深さは「常識」に対する違和感の深度だ。「常識」を疑うロックは一見とても激しいが、実はやさしいのだ。
今、私たちは社会の中から弾かれないよう「常識」に順応して毎日必死に頑張っている。みんな一生懸命で自分のことで精一杯。
だったら、一人ひとりの頑張りが無駄になってしまわないために、その頑張りを少しやさしさに向けることはできないか。大丈夫、ブルーハーツがマイクロフォンの中から「頑張れって」応援してくれているさ。
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文・イラスト/光澤裕顕(みつざわ・ひろあき)
著書『生きるのがつらいときに読むブッダの言葉』。浄土真宗(真宗大谷派)僧侶。福岡県八女市覺法寺衆徒。1989(平成元)年3月生まれ。新潟県長岡市出身。京都精華大学マンガ学部マンガ学科卒業。僧侶として仏道に励むかたわら、マンガ家・イラストレーターとしても活動中。
構成/inox.