お坊さん=高級車に乗っている?【坊主の知られざる話】
「お坊さん=高級車に乗っている」と世間で語られるが実際はどうなのか?僧侶である筆者が自身の経験から検証した。
検証①:車好きが多い
お坊さんは檀家宅へのお参りや本山での会議など車移動が少なくない。
特に、交通機関が乏しい地方の寺にとって車は生命線。車中で過ごす時間も増え、愛着が増すというわけだ。そこに個人の趣向も相まってということか。
補足すると、お坊さんが乗っている車=お布施で購入されたものとは限らない。自分で稼いだお金で個人的に購入している、つまり普通に働いて欲しいものを買っただけということもある。お坊さんでも他に仕事をしている人は多い。
お布施で高級車に乗っていることに対して疑問を持つのは解るが、自分で稼いだお金の使い方をアレコレ言われるのはちょっと気の毒である。
検証②:「高級車に乗って欲しい」
ごく少数ではあるが、高級車に乗っているお坊さんから聞いた話である。檀家さんから「自分の寺は立派でいて欲しい。だから高級車に乗ってくれ」とお願いされたとのこと。
最近は聞かなくなったが、「立派なお寺とお付き合いをしている」ということをステータスにしていた檀家さんも多かった。
本人は高級車に乗ることに葛藤があり辛そうであった。
検証③:高級車に乗っているお坊さんが目立っている
はっきり言って大多数のお坊さんは高級車に乗っておらず、軽自動車かファミリーカーが多い。
それでも「お坊さん=高級車」のイメージが強いのは、経済的に余裕のある一部のインパクトが大きいからだろう。余裕のないお坊さんはサラリーマンなど普通に働いている。無論、高級車に乗る余裕はない。
確かに高級車に乗っているお坊さんはいる、それは否定できない。しかし、「お寺の収入だけで生活できるのは全体の3割程度」との話も聞くし、高級車に乗る余裕があるのは恐らく1割程度だろう。
俗っぽい言い方をすれば「業界トップ」の人で大多数にとって高級車は無縁の話なのだ。
まとめ
「高級車に乗るお坊さん」は決して多くない、にも関わらずイメージが強いのは、ギャップがおもしろおかしく広がったのだ。
仏教ではモノへの「執着心」は煩悩としてあげられている。しかし、時代とともに僧侶の役割も変化し現実的に何も持たない生活は不可能。ジレンマである。
ある偉大な僧侶を「赤表紙と新聞の間に生きられた」と例えた言葉がある。
赤表紙とは「仏教」、新聞とは「世間」の比喩で、仏教に偏っても人に伝わらないし、世俗に染まり過ぎればそれは僧侶失格。中間が重要だ。もし高級車が悪目立ちしている僧侶がいたら、バランス感覚が良くないのだろう。
これは仏教界に限った話ではない。社会もバランス感覚が重要なピースになる。しかし、私たちは他人のバランスの悪さばかりに目を向けてしまいがち。
優れたバランス感覚とは他人のバランスを許容できることだと私は思う。バランスがいい具合に保たれれば、誰もが住み良い世界に近づくのだ。
文・イラスト/光澤裕顕(みつざわ・ひろあき)
著書『生きるのがつらいときに読むブッダの言葉』。浄土真宗(真宗大谷派)僧侶。福岡県八女市覺法寺衆徒。1989(平成元)年3月生まれ。新潟県長岡市出身。京都精華大学マンガ学部マンガ学科卒業。僧侶として仏道に励むかたわら、マンガ家・イラストレーターとしても活動中。
構成/inox.