端正な顔立ちで描かれる鬼の総大将・鬼舞辻無惨の印象は、子供の頃に絵本で見た鬼とギャップがあるような……実は、「鬼の専門家」によれば、むしろ日本古来の伝承で描かれた鬼とよく似ているという。
POINT
一、日本における「鬼」の描かれ方は、時代とともに変化してきている
二、2人の鬼の総大将に共通する〝人間味と美学〟
三、日本人に古くから好まれてきた要素が『鬼滅』には詰まっている
民俗学者・文化人類学者 小松和彦さん
1947年生まれ。2012年より国際日本文化研究センター所長。2020年3月退任。2020年4月より同名誉教授。著書『鬼と日本人』(角川ソフィア文庫)ほか多数。
〝敗者〟である鬼が魅力的に描かれている
ひとりの研究者として、新たな「鬼」をテーマにした作品が生まれたことをうれしく感じています。文化とは、新たな作品が創造されることで進化していくからです。『鬼滅の刃』のおかげで鬼の文化の歴史に新たな1ページが加わりました。
個人としても、『鬼滅』はおもしろい作品でした。主人公の炭治郎が浅草の街を訪れるシーンがありましたが、大正時代の前近代と近代が交錯するノスタルジックな情景を見事に表現していて、強く印象に残りました。このシーンで炭治郎が鬼の総大将である鬼舞辻無惨(きぶつじむざん)と邂逅した際、無惨はハイカラな紳士姿でした。これは南北朝時代の絵巻『大江山絵詞』に登場する、こちらも鬼の総大将である酒呑童子を彷彿させます。彼もまた、美しいお稚児(ちご)姿で人前に出たという逸話が残されているからです。
そもそも、「鬼」とは一種の概念で、悪あるいは恐怖の対象そのものです。「鬼」というラベルを何に対して貼るかは、時代によって変化してきました。天災や疫病が鬼と称されることもあれば、「鬼畜米英」のように敵国を鬼に例えることもありました。しかし、いつの時代でも「鬼」は「人間」の姿で描かれます。
では『鬼滅』の鬼たちはどのように描かれているかというと、どれも個性豊かです。視聴者や炭治郎たちにとって許せない理由で鬼になった者もいれば、同情せざるを得ない理由で鬼になった者も登場します。鬼舞辻無惨は、永遠の命に対して執着が強く、人間くさい。対して酒呑童子は、平安時代中期の武将・源頼光(よりみつ)に酒に酔わされ寝ている隙に首を切られますが、死の間際に首だけの状態で「鬼に横道なきものを」と言い残します。これは「鬼はそんな騙し討ちはしないぞ」といった意味です。魅力的な鬼は、こうした“美学”を持ち合わせているのです。
『鬼滅』が幅広い世代に受け入れられているのは、作中に日本文化のいろいろな要素が巧みに織り交ぜられていることが一因だと感じます。「鬼退治」を始め、炭治郎が修行をしながら育つ「成長譚」や、武道や芸道に見られる型のように「呼吸」を学ぶシーン、炭治郎と禰豆子の「兄妹の絆」などは古くより好まれるテーマでしょう。作者の吾峠呼世晴氏は、綿密な工夫によって日本人の心をつかんだ新しい鬼退治物語を見事に作り上げたといえるでしょう。
不死への執着から皮肉にも作中で屈指の〝人間味のあるキャラクター〟となったラスボス・鬼舞辻無惨と邂逅する炭次郎(第2巻 第13話)。
多くの鬼を従えた酒呑童子には、住んでいた大江山(京都府)を伝教大師(最澄)に追われたという悲しい過去がある。図中では大男の姿で描かれている。
取材・文/峯 亮佑