犬が死んだ朝「朝7時の犬」
「先生、クロのお葬式なんですけど、明日の朝7時ピッタリにできないでしょうか?」雑種犬クロが老衰で穏やかに眠ったその朝、飼い主のお母さんから電話が入った。
当直だった獣医師はぜひお母さんの望みを叶えてやりたいと思ったので、「葬儀センターに聞いてみますね」と答えた。
雑種犬クロは朝7時00分の犬である。
クロは朝7時ピッタリにお散歩に行く。どんなに天気が悪くても、7時のお散歩は絶対に欠かさない。
ご近所でも評判だ。通り沿いのアパートに住むおばあさんなど、クロのお散歩でいまが7時10分であることを知った。向こうの通りを歩くビジネスマンは、クロが信号をわたる前に、手前の角を曲がりきらなければ快速電車に乗り遅れてしまうとわかっていたので、少し歩調を早めた。
アパートの先は八百屋。クロが通りかかると八百屋のシャッターが開けられることを知っていて、嬉しそうに中をのぞいた。八百屋の二代目の若いお兄さんはクロが大好き。会えばかならず頭を撫でてくれ、エプロンのポケットから三角チーズをくれるのだ。
7時35分前後に第一公園に到着。お父さんはベンチに座り、ちょっと一服。暑いと自動販売機の冷たい水を買ってクロに飲ませてくれる。いつも公園に集まる犬仲間と遊んだ後、家に帰り着くのは8時5分すぎ。お母さんは、食事の支度と洗濯をすませて待っている。そして、お腹をすかせた老夫婦二人、「今日の散歩はどうだった?」からはじまる朝食だ。
朝7時の時報と同時に家を出ないとクロはものすごい声で鳴きわめき、怒る。その声はすさまじく、お母さんとお父さんは動物虐待している気分になる。7時前ならいいだろうと、お父さんが6時に散歩に行こうとしたら今度は頑として動かない。初めて牙を剥いて唸った。どういうわけか、7時ちょうどでないと機嫌が悪いのだ。それ以外はどんなご飯でも満足して食べ、誰にでも触らせてくれる気の良い犬なのに。
お父さんはクロのためにいつも6時30分に起きて着替え、散歩に備えて玄関でリードをもって待機する。そして7時ちょっと前にリードをつけて庭から玄関へ行く。クロはうきうきした足取りで玄関の前まできて、7時00分の時報と同時に出発だ。
クロが動物病院で保護されたのは生まれて約一ヶ月目。警察官が段ボール箱に入れて連れて来た。動物病院でしばらく過ごした後、散歩用に犬がほしいと見にきた夫婦に迎えられた。そして、朝7時の犬になったのである。
なぜ、クロが7時にこだわるのか。誰にもわからなかった。クロは正確な時刻を察知する特殊能力を備えていた。お父さんは家の柱時計のボンボン音を聞くのだと思って時計をわざと遅らせた。柱時計の時報がなくてもクロは7時に吠えた。朝、お母さんが起きてからつけっ放しのラジオの時報を聞くのかもしれないと、その朝は消してみた。それでも、クロは7時に騒ぐ。家中の時計を全部、狂わせみたけれど、クロだけは正確な時間を知っていた。7時をたった1分でも過ぎない17年間だった。
クロは気の良い雑種犬で誰にも優しかった。体重は10キロそこそこ。お父さんが足をケガしたときは異常を察してゆっくり歩いてくれた。公園で他の犬といっしょに走り回るのが大好きだった。お母さんはクロが絶対に人を咬まないと知っていたので、誰でもクロに触らせた。とくに子供たちには人気で、学校帰りに遊びにきた。
獣医師はクロのご両親に会うたびに、お礼を言われた。
「先生、クロを世話してくれてほんとうにありがとうございました。クロのおかげで毎朝、散歩ができて、足腰も丈夫になったし、ご近所の方にも可愛がっていただいているんですよ」
獣医師は捨て犬のクロが家族に受け入れられ、幸せに暮らしているのが嬉しかった。
そして17年。繰り返された朝の散歩も様変わりしてきた。まず、公園で走り回って遊んだ友達が次々にいなくなり、新しい仲間がふえてきた。クロの名の通り、全身真っ黒で艶のある毛がいつしか光を失い、鼻の周りに白い毛が生えてきた。公園でクロが最長老になったと知ったとき、お父さんは感慨深かった。そして、いつかやってくる最後の日について、ひそかに覚悟を決めていた。
クロがやってきたのは春だった。お父さんは初めてクロと散歩に行って、第一公園の桜並木を堪能したのだ。犬を連れて歩くと、地面に近い、低いところをよく見るようになる。
それまで見上げてばかりいた桜の木だったが、地面に落ちた花びらのほうも空に咲く花に負けないほど美しいことを知った。朝一番で散歩をすると、だれも踏みしめていない花びらが地面にびっしり重なっている。うすいピンクの花の上を、仔犬のクロが前へ前へと進んでいく。クロが花びらの上を歩くと、ちいさい花のような足跡が点々と刻印される。
この小さい足跡を見て、お父さんは小さい命の尊さを思い知らされたのだ。捨て犬だったクロを幸せにしてやることが、自分の使命なのだと感じた。そのことを俳句にしたら、初めて入選した。クロには記念に立派な骨のおもちゃを買って与えた。
クロが初めて桜を観てから17回目。桜が散り始めて3日後、クロは急に食欲が落ちた。獣医師は老衰と診断した。お母さんは家の中でいちばんクロが好きな場所に寝かせた。クロはうつうつ眠り、水ばかり飲んでいた。それでも7時には玄関前に座って時報と同時に家を出た。歩くのが辛そうだった。いつもよりゆっくり歩くので、通り沿いのおばあさんも、通りかかるビジネスマンも、八百屋のお兄さんも、みんながいつものクロでないことを知ったのだ。
とうとうその朝、クロの首輪にリードをつけて玄関を出ようとしたところでクロは静かに崩れ落ち、眠ってしまった。朝7時00分だった。
お母さんは朝7時00分の犬、クロの葬式を朝7時にしてやりたかった。獣医師は連絡を受けて、動物葬儀会社に交渉したが、早朝の引き取りは前例のないことと断られてしまった。でも、獣医師はクロのためになんとしても7時にこだわりたかったので、翌朝いったん7時に家からクロの遺体を病院に運び、病院から葬儀会社へ移動させることにした。
獣医師が運転する車は朝7時の時報と同時にクラクションを鳴らし、ゆっくりと出発した。そしてクロの散歩道をぐるりと一周した。
まず通り沿いをゆっくり走ると、洗濯物を干していたおばあさんがこっちに気づいた。お父さんが窓を開けてワゴン車からクロを抱いて外を見せていたら、おばあさんが気づいて洗濯物を顔に押しつけて部屋の中に入ってしまった。
角を曲がって交差点で赤信号。信号のむこうには快速電車に乗るビジネスマンが歩いていた。周りを見回している、そうか、クロを探してるんだ。そう思ったお父さんは初めてクロの死を実感した。ワゴン車の窓を開けて、一度も挨拶をしたことのないそのビジネスマンに手を振ったら、お父さんに気づいて手を振ってくれた。動物病院のワゴン車を不思議そうに見ていた。
次にクロの乗った車は八百屋の前に立っていたお兄さんの前で止まった。お兄さんはポケットに手を入れていたが、ワゴン車を見てすぐ、店の中に引っ込んでしまった。車が発車して、八百屋からだいぶ離れた信号で止まっていたら、お兄さんが自転車で追いかけてきた。クロがどこへ行くのか知ったお兄さんは仏花を手渡してくれたのだ。自分の家に飾られていたものかもしれない。バラバラの菊がしっかり握られていた。茎の根元が水で濡れていて冷たかった。お兄さんは黙って窓から手を入れ、手のひらでそっとクロの鼻に触って頭を下げ、自転車に乗った。
公園にさしかかった。獣医師が「降りますか?」と聞いてくれたが、お父さんは元気な他の犬たちを見るのがせつなくてと断った。公園のむこう側にはいつもの散歩仲間が遊んでいる。耳を後ろになびかせて、走り回る犬がいた……あと十年もたてば、あの仲間だって一頭もいなくなる……お父さんは負け惜しみのようにそう思った。そして、散ったと思った桜の木の枝に一房だけ花が残っているのを見つけたのだ。
「お父さん、桜がまだ、ちょっとだけ咲いてますね」
お母さんも気づいて枝を指した。地面の上。桜の花弁の上に点々とついたクロの小さい足跡がくっきりと蘇ってきた。あのとき、自分はこの犬を幸せにしてやろうと決意したが、それは果たされたのだろうか。ワゴン車はゆっくりと公園を一周して動物病院へ向かった。
文/柿川鮎子(PETomorrow編集部)
「犬の名医さん100人データーブック」(小学館刊)、「犬にまたたび猫に骨」(講談社刊)、「動物病院119番」(文藝春秋社刊)など。作家、東京都動物愛護推進委員)
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