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死にゆく愛犬にかけるべき言葉

2020.09.04

犬が死んだ朝

往診に来た獣医は「今夜中だと思います」と言って帰った。

老人と死にかけた小さな犬だけが取り残された。犬は朝日を見ることなく、亡くなるらしい。今はただ、横たわった体を優しくなでている。

亡くなった妻はこの犬を溺愛し、心配していた。きちんと世話をしているのか、夫の私のことよりも気にしていた。

見舞いに行くと「あの子はどうしてるの?」と聞かれるので、安心させたくて、たくさんの写真を撮影して病院に持って行った。

写真を枕元に置いておくと、若い看護師が「可愛いわんちゃんですね」と声をかけてくれる。

「ペットショップで一目ぼれしたのよ」と妻は嬉しそうだった。真っ黒で大きな瞳の、賢い犬だった。うるさく吠えることもなく、散歩の犬仲間も多く、誰からも可愛がられた。

病院のベッドで「あの子に会いたい。ひとめで良いから会いたい」と泣かれたので、ワゴン車を借りてきて、病院の駐車場でこっそり引き合わせた。

興奮した犬が吠える声をはじめて聞いた。妻は犬の匂いを思い切り吸い込んで、思い残すことは何もないと呟いた。

老人の一人暮らしを心配して、いろいろな人が勝手に忠告してきたが、妻が亡くなっても犬との二人暮らしを変える気はなかった。散歩や食餌など、日常生活は犬が中心となり、妻の穴を埋めて余りある、とてつもなく大きな存在になっていった。

「あなたねえ、ヨーキーって犬は、イギリス貴族を夢中にさせた犬なのよ」と妻がよく自慢していた通り、人の気持ちを読み取るのが得意な犬だった。人を見分ける判断力に優れていて、犬好きで可愛がってくれそうな人を見つけるのが、得意だった。

散歩には全身全霊をかけて一生懸命な一方で、普段は家の中で一番、快適な場所で昼寝をする。オンとオフの切り替えも素晴らしかった。

何より膝の上に乗ってくるタイミングが絶妙だった。妻が亡くなってしばらくしたある日、夕飯の食材を買いに商店街の八百屋へ行った。

混雑している店で、おやじがおかみさんを怒鳴っている声が耳に入った。普段なら聞き流すのに、なぜかその時は、おやじに腹が立って、いてもたってもいられない気分になってしまった。

カゴに入れた大根やネギをそのまま店に置いて、無我夢中で家に帰った。水を飲んでソファーに座り、おおきな息をついたら、犬がぴょんと膝に乗ってきた。どくどく脈打っていた身体が楽になり、血圧が下がった。

犬の背中を撫でていると、振り返って小さな舌で、優しく舐めてくれる。なごんでいるうちに、自分があのおやじに激しく嫉妬していたのに気が付いた。

八百屋の主人がおかみさんを怒鳴り、おかみさんも負けずに言い返す。自分たちは人前で、あんなにみっともないケンカをしたことがない。

いつも穏やかだったし、妻はおかみさんよりもずっと上品で美しかった。でも、八百屋の夫婦は今、二人でいるのだ。

ヨークシャー・テリアは膝の上でもっと撫でてくれとせがみ、私はずいぶん長い間、犬を抱いて撫でていた。もう大丈夫、と思えるまで付き合ってくれた。

一番の思い出はノーリードで草原を走り回ったことだ。妻の実家が広い牧草地をもっていて、そこへ連れて行った。当時はまだ妻も元気で、里帰りが嬉しそうだった。

広い牧草地で犬を放すと、振り返りながら、かなり遠くまで行ってしまい、心配した妻が大声で名前を呼んだ。すぐに振り返った犬は、そこから全速力で戻ってきた。自分が帰る場所は、あなた達のところだ、と。

眠っているように横たわった犬を見ていると、楽しかった犬との思い出があとからあとから溢れてくる。最後の時、看護師は「耳は最後まで聞こえますから、声を掛けてあげてください」と教えてくれた。

あの時、何と声を掛けたのか、今は思い出せない。犬には「ありがとう」以外、何と言ったらいいのだろう。

死にゆく犬へ、かけるべき言葉が書いてある本はないか。

ふらふら立ち上がって、暗い書棚に本を探した。昔の詩集を引っ張り出して開いてみる。そこにあった言葉は、犬からのメッセージだった。

「さよなら」とわれ叫ばん

いざわれは汝を離れて

とび行かん未見の空のあなたに。

(村山槐多「過ぎし日に」より)

文/柿川鮎子(PETomorrow編集部)

構成/inox.

え、知らないの?笑って泣ける犬猫マガジン「PETomorrow」

https://petomorrow.jp
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