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破天荒で情熱家。南アフリカW杯16強入りの立役者・田中マルクス闘莉王が現・日本代表に伝えたいこと

2019.12.13

Stuart Franklin / gettyimages

 2019年の森保ジャパン最後の公式大会なるEAFF E-1選手権2019(釜山)が10日の中国戦からスタート。日本は鈴木武蔵(札幌)三浦弦太(G大阪)のゴールで2-1の勝順当に白星発進してみせたが、中国のラフプレーまがいの激しいタックルを受ける選手が続出。クリーンな戦いで勝ち切ったの、タフさや泥臭さが足りないいう印象少なからず残した。

 闘争心あふれるプレーを誰より体現していた日本代表選手言えば、やはり2010年南アフリカワールドカップベスト16入りのけん引役なったDF田中マルクス闘莉王(京都)だろう。彼は今季限りで現役引退を表明し、12月1日に引退会見を行なったが、その席上で「今はホントにキレイなサッカーばっかり。そういうころを求められてるの分かるけど、泥臭く一生懸命に戦う姿勢をなくしてほしくないし、そういう気持ちを伝えられる選手が消えてほしくない」今の若い世代にあえて苦言を呈した。アジアはちろんのこ、世界対峙すれば、小手先の技術や戦術だけでは勝ち抜けないころがある。その現実を痛感し、熱いプレーを身を持って示してきた闘莉王の思いを、E-1選手権に挑んでいる代表選手たちにぜひ胸に刻み込みながら戦ってほしいだ。時に日本人離れした言動を見せる破天荒さで異端児扱いされるこあった偉大なDFの足跡を今一度、辿ってみるこにしたい。

留学生として来日、J2水戸でブレイク

 ブラジル日系3世して81年4月に誕生した闘莉王が初来日したのは、日本がワールドカップ初出場を果たした98年。千葉県屈指の進学校である渋谷教育学園幕張(渋谷幕張)にサッカー留学したのがきっかけだった。

 恩師・宗像マルコス望監督はこう語る。
「渋谷幕張は国際人育成が教育目標で、ブラジルだけじゃなく、フィンランドやマカオ、カナダなどいろんな生徒を受け入れています。14人目の留学生だった闘莉王が来た頃は私自身そんな環境に慣れた時でした。
 彼はブラジルで出会いました。いい選手を探すために400人の子供を見たのの、納得できる人材がいない。そんな時、知人から『サンパウロから片道6時間のミラソルいう町のクラブに面白い選手がいる』聞いて足を運びました。闘莉王はお父さんが日系二世だったせいか『日本へ行きたい』意思が明確だった。プレー派手で、知らない人間初めて一緒にやったのに仕切っていた。そのリーダーシップを見てピン来ました」

 これでチャンスをつかみ、2001年にサンフレッチェ広島入りを勝ち取る。しかし当時は外国人選手いう位置付けで、1年目はJ1・17試合、2年目は22試合出場完全に定位置を得たは言い切れない状況だった。同年の広島のJ2降格あり、2003年には同じJ2の水戸ホーリーホックへレンタル移籍を強いられたが、そこでの大活躍でブレイク。日本国籍取得に踏み切り、外国人枠の問題がなくなったこで2004年に浦和レッズに引っ張られる。同時に2004年アテネ五輪代表入りして日の丸をつけて世界舞台に参戦。こうして日に日に存在感を増していった彼は2006年の浦和のJ1制覇、2007年のアジアチャンピオンズリーグ(ACL)優勝の原動力になったのだ。

 2009年に名古屋グランパスへ移籍してから「名古屋を優勝させる」宣言し、翌2010年に有言実行を果たす。当時のチームには楢崎正剛(名古屋スペシャルフェロー)、田中隼磨(松本山雅)、玉田圭司(長崎)ら個性あふれる面々がひしめいていたが、闘莉王はしばしば楢崎や田中隼磨言い合いになるほど勝利に強くこだわった。「闘莉王は常にやりあったし、お互いに厳しさを持って戦っていた。ああいうチームじゃなきゃ優勝できない」田中隼磨しみじみ述懐していたほどだ。

日本代表に必要だった異端児

 その闘将ぶりがより発揮されたのが、南アフリカでのワールドカップだった。岡田武史監督(現FC今治代表)率いる当時の日本代表は2010年に入ってから低調な戦いが続き、壮行試合・韓国戦で0-2敗した後には指揮官が進退伺を出す事態にまで発展した。そんなゴタゴタを黙って見ていられなかった闘莉王は直前合宿地のスイス・ザースフェーでの選手ミーティングで「俺たちは弱い。出場32カ国の中で下から数えた方が早い。そんなチームが自分たちで主導権を握る理想のサッカーなんてできるわけがない」口火を切り、超守備的な戦い方にシフトするきっかけを作った。純日本人的メンタリティではない彼は思ったこをストレートに口に出す。その勇気がなかったら、南アでの大躍進、16強入りいう好成残せなかった。

 2018年ロシアワールドカップで日本は下馬評の低さを覆してベスト16入りを果たしたが、ベルギー戦(ロストフ)は90分で逆転負けを喫してしまった。だが、南アのパラグアイ戦(プレトリア)は延長の末にPK戦まで突入。本当に8強まであ歩のころまで近づいた。だからこそ、闘莉王は「俺たち南アのチームが一番強かった思っている」堂々い切ったのだ。

 あのPK戦3番手の駒野友一(FC今治)のキックが少し上に飛んでクロスバーを叩かなければ、違った展開になっていた。5番手で控えていた闘莉王は自分が蹴るチャンスが訪れる前に決着がついたこを9年経った今悔やんでいるいう。
「PKを蹴れなかったこで寝られない夜を過ごした。こんなにキックを蹴りたい思ったこは今までなかった。結末を見られずに終わってしまったこは神様の自分に対する嫌がらせかな感じましたね」彼は神妙な面持ちで言う。誰より強靭なメンタルを持っているこの男までPK戦が続いていたら、日本はパラグアイを下していた可能性あった。それだけ勝負を大きく左右できる存在感を持った選手だったのだ。

 だからこそ、ワールドカップ出場1回のみいうのは物足りなさが残る。2006年ドイツワールドカップの時はすでに「日本屈指のDF」評価を受けながら、指揮官のジーコ(鹿島テクニカルディレクター)が闘莉王のプレースタイルを好まず、招集に至らなかった言われている。南アの後に代表を率いたアルベルト・ザッケローニ監督影響力が大きすぎる彼を外してチーム作りを進めた。中澤佑二闘莉王いう2人の強力DFが一挙に代表を去る形になり、まだ不安定ながらDF常連組なった吉田麻也(サウサンプトン)は「僕は世代交代のすぐ後に入ったからポジション争いをしないでこの立場を確保できた」申し訳なさそうに語ったこがある。闘莉王がその後表に残り、2014年ブラジル大会まで闘将して君臨し続けたしたら、ブラジルの惨敗また回避できたかしれない。歴史にたらればはないが、そういう想像をさせてくれるだけの偉大な選手だったのは間違いない。

 今後はブラジルに戻って実業家になる言われているが、その前にE-1選手権での解説者の仕事が待っている。18日は永遠のライバル・韓国の覇権を巡る戦い行われるだけに、熱い男からどのような発言が飛び出すか大いに気になるころ。ピッチ上の選手た解説者・闘莉王に負けないように、凄まじいエネルギー闘争心を押し出して、泥臭くタイトルを取りに行くしかない。

取材・文/元川悦子
長野県松本深志高等学校、千葉大学法経学部卒業後、日本海事新聞を経て1994年からフリー・ライターとなる。日本代表に関しては特に精力的な取材を行っており、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは1994年アメリカ大会から2014年ブラジル大会まで6大会連続で現地へ赴いている。著作は『U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日』(小学館)、『蹴音』(主婦の友)『僕らがサッカーボーイズだった頃2 プロサッカー選手のジュニア時代」(カンゼン)『勝利の街に響け凱歌 松本山雅という奇跡のクラブ』(汐文社)ほか多数。

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