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2019年の森保ジャパン最後の公式大会となるEAFF E-1選手権2019(釜山)が10日の中国戦からスタート。日本は鈴木武蔵(札幌)と三浦弦太(G大阪)のゴールで2-1の勝利と順当に白星発進してみせたが、中国のラフプレーまがいの激しいタックルを受ける選手が続出。クリーンな戦いで勝ち切ったものの、タフさや泥臭さが足りないという印象も少なからず残した。
闘争心あふれるプレーを誰よりも体現していた日本代表選手と言えば、やはり2010年南アフリカワールドカップベスト16入りのけん引役となったDF田中マルクス闘莉王(京都)だろう。彼は今季限りで現役引退を表明し、12月1日に引退会見を行なったが、その席上でも「今はホントにキレイなサッカーばっかり。そういうところを求められてるのも分かるけど、泥臭く一生懸命に戦う姿勢をなくしてほしくないし、そういう気持ちを伝えられる選手が消えてほしくない」と今の若い世代にあえて苦言を呈した。アジアはもちろんのこと、世界と対峙すれば、小手先の技術や戦術だけでは勝ち抜けないところがある。その現実を痛感し、熱いプレーを身を持って示してきた闘莉王の思いを、E-1選手権に挑んでいる代表選手たちにぜひとも胸に刻み込みながら戦ってほしいものだ。時に日本人離れした言動を見せる破天荒さで異端児扱いされることもあった偉大なDFの足跡を今一度、辿ってみることにしたい。
留学生として来日、J2水戸でブレイク
ブラジル日系3世として81年4月に誕生した闘莉王が初来日したのは、日本がワールドカップ初出場を果たした98年。千葉県屈指の進学校である渋谷教育学園幕張(渋谷幕張)にサッカー留学したのがきっかけだった。
恩師・宗像マルコス望監督はこう語る。
「渋谷幕張は国際人育成が教育目標で、ブラジルだけじゃなく、フィンランドやマカオ、カナダなどいろんな生徒を受け入れています。14人目の留学生だった闘莉王が来た頃は私自身もそんな環境に慣れた時でした。
彼とはブラジルで出会いました。いい選手を探すために400人の子供を見たものの、納得できる人材がいない。そんな時、知人から『サンパウロから片道6時間のミラソルという町のクラブに面白い選手がいる』と聞いて足を運びました。闘莉王はお父さんが日系二世だったせいか『日本へ行きたい』と意思が明確だった。プレーも派手で、知らない人間と初めて一緒にやったのに仕切っていた。そのリーダーシップを見てピンと来ました」
これでチャンスをつかみ、2001年にサンフレッチェ広島入りを勝ち取る。しかし当時は外国人選手という位置付けで、1年目はJ1・17試合、2年目は22試合出場と完全に定位置を得たとは言い切れない状況だった。同年の広島のJ2降格もあり、2003年には同じJ2の水戸ホーリーホックへレンタル移籍を強いられたが、そこでの大活躍でブレイク。日本国籍取得にも踏み切り、外国人枠の問題がなくなったことで2004年に浦和レッズに引っ張られる。同時に2004年アテネ五輪代表入りして日の丸をつけて世界舞台に参戦。こうして日に日に存在感を増していった彼は2006年の浦和のJ1制覇、2007年のアジアチャンピオンズリーグ(ACL)優勝の原動力になったのだ。
2009年に名古屋グランパスへ移籍してからも「名古屋を優勝させる」と宣言し、翌2010年に有言実行を果たす。当時のチームには楢崎正剛(名古屋スペシャルフェロー)、田中隼磨(松本山雅)、玉田圭司(長崎)ら個性あふれる面々がひしめいていたが、闘莉王はしばしば楢崎や田中隼磨と言い合いになるほど勝利に強くこだわった。「闘莉王とは常にやりあったし、お互いに厳しさを持って戦っていた。ああいうチームじゃなきゃ優勝できない」と田中隼磨もしみじみ述懐していたほどだ。
日本代表に必要だった異端児
その闘将ぶりがより発揮されたのが、南アフリカでのワールドカップだった。岡田武史監督(現FC今治代表)率いる当時の日本代表は2010年に入ってから低調な戦いが続き、壮行試合・韓国戦で0-2と完敗した後には指揮官が進退伺を出す事態にまで発展した。そんなゴタゴタを黙って見ていられなかった闘莉王は直前合宿地のスイス・ザースフェーでの選手ミーティングで「俺たちは弱い。出場32カ国の中でも下から数えた方が早い。そんなチームが自分たちで主導権を握る理想のサッカーなんてできるわけがない」と口火を切り、超守備的な戦い方にシフトするきっかけを作った。純日本人的メンタリティではない彼は思ったことをストレートに口に出す。その勇気がなかったら、南アでの大躍進も、16強入りという好成績も残せなかった。
2018年ロシアワールドカップでも日本は下馬評の低さを覆してベスト16入りを果たしたが、ベルギー戦(ロストフ)は90分で逆転負けを喫してしまった。だが、南アのパラグアイ戦(プレトリア)は延長の末にPK戦まで突入。本当に8強まであと一歩のところまで近づいた。だからこそ、闘莉王は「今も俺たち南アのチームが一番強かったと思っている」と堂々と言い切ったのだ。
あのPK戦も3番手の駒野友一(FC今治)のキックが少し上に飛んでクロスバーを叩かなければ、違った展開になっていた。5番手で控えていた闘莉王は自分が蹴るチャンスが訪れる前に決着がついたことを9年経った今も悔やんでいるという。
「PKを蹴れなかったことで寝られない夜を過ごした。こんなにキックを蹴りたいと思ったことは今までなかった。結末を見られずに終わってしまったことは神様の自分に対する嫌がらせかなと感じましたね」と彼は神妙な面持ちで言う。誰よりも強靭なメンタルを持っているこの男までPK戦が続いていたら、日本はパラグアイを下していた可能性もあった。それだけ勝負を大きく左右できる存在感を持った選手だったのだ。
だからこそ、ワールドカップ出場1回のみというのは物足りなさが残る。2006年ドイツワールドカップの時はすでに「日本屈指のDF」と評価を受けながらも、指揮官のジーコ(鹿島テクニカルディレクター)が闘莉王のプレースタイルを好まず、招集に至らなかったと言われている。南アの後に代表を率いたアルベルト・ザッケローニ監督も影響力が大きすぎる彼を外してチーム作りを進めた。中澤佑二と闘莉王という2人の強力DFが一挙に代表を去る形になり、まだ不安定ながらDF常連組となった吉田麻也(サウサンプトン)は「僕は世代交代のすぐ後に入ったからポジション争いをしないでこの立場を確保できた」と申し訳なさそうに語ったことがある。もしも闘莉王がその後も代表に残り、2014年ブラジル大会まで闘将として君臨し続けたとしたら、ブラジルの惨敗もまた回避できたかもしれない。歴史にたらればはないが、そういう想像をさせてくれるだけの偉大な選手だったのは間違いない。
今後はブラジルに戻って実業家になると言われているが、その前にE-1選手権での解説者の仕事が待っている。18日は永遠のライバル・韓国との覇権を巡る戦いも行われるだけに、熱い男からどのような発言が飛び出すか大いに気になるところ。ピッチ上の選手たちも解説者・闘莉王に負けないように、凄まじいエネルギーと闘争心を押し出して、泥臭くタイトルを取りに行くしかない。

取材・文/元川悦子
長野県松本深志高等学校、千葉大学法経学部卒業後、日本海事新聞を経て1994年からフリー・ライターとなる。日本代表に関しては特に精力的な取材を行っており、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは1994年アメリカ大会から2014年ブラジル大会まで6大会連続で現地へ赴いている。著作は『U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日』(小学館)、『蹴音』(主婦の友)『僕らがサッカーボーイズだった頃2 プロサッカー選手のジュニア時代」(カンゼン)『勝利の街に響け凱歌 松本山雅という奇跡のクラブ』(汐文社)ほか多数。