
2019年4月1日付で中島伸子副会長(66歳)が「あずきバー」で知られる井村屋グループの新社長に就任した。同社で女性が社長に就任したのは1896年の創業以来初めてだ。何と中島社長は女性であるだけでなく、アルバイト出身だという。アルバイト出身の中島伸子社長がどうやって頭角を発揮したのか聞いた。
学校の先生になりたかった少女時代から一転悲劇に
子どもの頃はマラソンをするなど活発な子どもだった中島社長。姉、妹2人、弟の兄弟で育ったが、誰もおままごとらしいおままごとはしていなかったそうだ。
「父親は、あまり、勉強をしろということは言わなかったんですよ。まず、体を鍛えなさいと。マラソンをして疲れても、ゴールするまで帰ってくるなとか、そういう精神をしっかり鍛えなさいと言っていました。朝から、春日山にマラソンに行ってこい!という感じでしたよね」
中学・高校時代は陸上部とソフトボール部に入っていたという中島社長。子どもの頃の夢は学校の先生になることだった。
「雪深いところだったので、冬は先生の下宿もしていた実家で、雑誌『太陽』とか、先生はああいう本を何冊も持っていらっしゃるんですよ。それで、見せてほしくて、見せてほしくて、よく先生のところに遊びに行って。先生って良いな、こういう本を自由に見られるんだなと思った覚えがあります。小説なんかも、いっぱい持っていらっしゃるし。学校の先生になって、人に教育をというよりも、学校の先生になったらいろいろな本を好きなだけ読めるんだというのが動機で、先生になりたいと思いました」
その夢が打ち砕かれたのは19歳のときだった。北陸トンネルの火災事故にあって一酸化炭素中毒で声帯をやられて声を失った。心理的にも、目の前で子どもを連れたお母さんが亡くなるなど大きなショックを受けた。その後3年間、大きな声は出なかった。人前で大きな声で話し続ける教師の仕事が不可能になった瞬間だった。
「何かしゃべろうと思うと、口から、ススが出てくるんです。あとでレントゲンを撮ったら、肺も真っ黒でしたから。今でも、45年経っても、このしわがれ声ですからね、びっくりでしょ」。
中島社長は明るく話すが、そのショックは想像するに余りある。大学も辞めた中島社長。
「何して生きていけば良いのかなって迷っていたんですね。あるとき、父が手紙をくれたんですよ。『いつまでも無駄な時間を過ごしてどうするんだ? 亡くなった人たちに悪いと思わないんか? しっかり生きていくことが、亡くなった人への恩返しだ。
声が出なくても生きていく方法はいくらでもある。人にはないプラス1というのを見つけていけば、必ず幸せな人生になれる』と。辛いという字を書いて、矢印して、1足して、幸せという字を書いてよこしたんですよ。その文字については、何も解説がなかったのですけれど。父の気持ちが分かりました。これがプラス1なんだなと思って」
手紙をきっかけに、声が出なくても、出来る仕事を探しだした。文章の校正士、編み物の先生、調理師免許も取った。それは後になって、すごく役に立った。
「そのときは、何でも良いから資格を取っていけば、どこかで暮らしていけるだろうと思っていたんですよね」
その後、考え直して幼稚園や小学校の免許をとり、声が治ったら再チャレンジする気持ちでいた。
そして、高校時代の先輩と結婚した。「同情か何か未だに分かりませんけど」と中島社長は笑う。生涯の伴侶を得たことで、強く生きる事へ気持ちを切り替えた。
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