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引退後こそ真の勝負!故・松田直樹の寵愛を受けたFWが歩んだ波乱の人生

2019.08.06

阿部祐大朗(U-20日本代表、横浜F・マリノス)

【Jリーガーたちのセカンドキャリア】 

 8月4日は2002年日韓ワールドカップ日本代表・松田直樹さんの命日だった。2011年に当時JFLに所属していた松本山雅の練習中に倒れ、帰らぬ人となった偉大なDFのことは、今も多くの人々の脳裏に焼き付いて離れない。

近い将来、日本代表FWになる逸材と言われた男の分岐点

「桐蔭学園高校を出て横浜F・マリノスに入った2002~2004年頃はいつもマツさんに面倒を見てもらっていました。彼は生粋のサッカー少年で、クラブハウスではもちろん、ランチやディナーの席でもいつもサッカーの話をしていました。
 誰よりもサッカーを愛して、サッカーと向き合っていたから、サポーターにも愛された。僕ら選手すらファンになってしまう存在でしたね。オシャレな洋服屋さんにも沢山連れて行ってもらいましたし、マツさんみたいになりたいと思って、彼が坊主にした時は、僕も坊主にしてました」と懐かしそうに語るのは阿部祐大朗さん。横浜を経て、モンテディオ山形、フェルヴォローザ石・白山FC、徳島ヴォルティス、ガイナーレ鳥取とJ1・J2・JFL、地域リーグの5クラブを渡り歩いたプロサッカー選手である。

 阿部さんが最も知名度を高めたのは、2001年U-17世界選手権(トリニダード・トバゴ)と2003年U-20ワールドユース(UAE)に参戦した頃。前者は日本サッカー協会の田嶋幸三会長が監督を務めるチームで出場。背番号11をつけて最前線を担った。田嶋監督から「近い将来、日本代表FWになる逸材」と言わしめるほどの非凡なポテンシャルを示していた。後者は島永嗣(ストラスブール)や今野泰幸(岩田)とともに参加。当初はエースFWと位置付けられたが、国見高校3年だった大型FW平山相太(現仙台大学監督)の急成長でポジションを奪われる苦い経験をすることになった。

「あのワールドユースが自分の選手キャリアの分岐点になりました。僕が下降線を辿る一方で、ユース代表で一緒にプレーしていた永嗣さんや今ちゃん、長谷部(誠=フランクフルト)さんが日本代表になり、2010年南アフリカワールドカップで活躍するのを見て、少なからず悔しさを覚えました。『20歳の時点ではそんなに差がなかったんだから、自分もああいうふうになれたんじゃないか』と思えば思うほど劣等感にさいなまれて、鳥取で現役を引退する2011年まで不完全燃焼感を拭いきれませんでした
 後から思うと、僕は全てが平均的だった。中学高校はフィジカルだけでやれたけど、プロになってからは壁にぶつかりました。それを乗り越えるための努力もできず、メンタリティも足りなかった。サッカーでは納得いく成果を残せませんでした。でも、自分なりにサッカー人生をやりきったとも感じた。『もう1度、サッカー以外のところで頂点を目指したい』と考え、引退したんです」

就職活動で直面した第二の人生の難しさ

 とはいえ、現役時代に引退後の準備をしていなかった阿部さんは就職活動を始めるや否や、社会の難しさに直面することになる。最初はどうしたらいいか分からず、好きだったファッション雑誌の会社に飛び込みで行って「自分を雇ってください」とアピールするところからスタートさせたという。
「事前のアポイントも取らずに行ったので、冷静に『中途採用試験を受けてください』と言われ、履歴書を出すところからやりましたけど、一般企業は書類審査、筆記試験、面接と何段階もありますよね。それを知らなくてビックリしました(笑)。面接まではこぎつけましたが、すでに家族もいて、稼がなければいけなかったので、そんな長々と就職活動に時間をかけていられなかったですね。
 同時並行でリクナビネクストに登録したり、知り合いの人材紹介会社の社長に『何でもいいから仕事を紹介してください』と頼んだりもしました。短期間で広告代理店やIT企業の営業、塾講師など8社を受験しましたが、ブライダル事業の会社に何とか内定をもらった。2012年2月から社会人1年生になることができました」

 実際に働き始めると選手時代とは何もかもが違う。プロサッカー選手は1日2時間程度の練習が基本でそれ以外はフリーだが、新天地は10~20時までの長時間拘束。掃除や挨拶、電話対応、接客とできないことだらけで困惑の日々を余儀なくされたのだ。
「電話を受けて『〇〇の阿部でございます』ととっさに言えず噛んでしまったり、名刺もうまく渡せず悩みましたね。結婚式場に運ぶ高価な花瓶を3か月間で4個くらい割りましたし、チャペルで新郎新婦が署名をするクリスタルガラスの台も壊したこともあった。『ホントに俺は別の世界に入ってもダメなんだな』とひどく落ち込んだのをよく覚えています」と阿部さんは苦笑する。

 半年後にウエディングプランナーになり、一息ついた矢先に、今度は引き出物の発注を忘れたり、メールを何度も書き忘れているうちに送信を忘れるというミスを犯した。お客さんから「担当を変えてくれ」と言われた時はさすがにショックが大きすぎたという。2013年秋からはレストラン部門に異動になり、マネージャーに昇格。本人もやりがいを感じたが、ブライダル部門以上の長時間労働で心身両面ともに負担が重くなり、アルバイトスタッフをうまくまとめられないなどの苦しみも味わうことになった。結局、丸3年働いたところで退職を決断。さらなるステップアップを目指して、次なる仕事を探すことにした。
 この時点で31歳。2度目の就職活動はハードルが高いと思われたが、前職を辞めてから2週間後には現在の大手金融会社で働き始めるというスピード転職を実現にした。

「ブライダル事業会社時代の先輩が今の会社に転職していて、『1人欠員が出たからどうか』と声をかけてくれたんです。その前に鳥取時代の友人から紹介された人材会社を通じて保険会社への再就職が決まりかけていたけど、今の会社に魅力を感じて方向転換しました。3年間の社会人経験で自分からアプローチしたり、話をしたりすることに慣れていたのが奏功し、面接2回で入社が決まった。数えきれないほど失敗を繰り返しましたけど、本気で前向きに取り組んできたことが生きたのかなと思います」

高みを目指して努力するということはサッカーと一緒

 2015年3月からは普通のサラリーマンとして法人営業を担当。サッカー選手時代には接点のなかった医療や建設、ベンチャー企業などの経営者と会うことで、社会や経済への関心も高まり、刺激的な日々を過ごしている。
「前職は拘束時間が長すぎてきつかったですけど、今は自分からアポを取って動かないと何も始まらない。スケジュールが白紙だと本当に怖いですね。そういう意味ではサッカー選手時代に戻ったみたいな感覚はあります。自らアクションを起こして、高みを目指して努力するというのもサッカー選手と一緒。当時の経験も生かせるので、転職してよかったと感じてます。
 ただ、現役時代からもっとセカンドキャリアのことを見据えて時間の使い方を考えないといけなかったですね。当時は『サッカーだけやってればいいんだ』と思っていて、第2の人生の準備を何1つしていなかったんです。Jリーグのセカンドキャリア研修もありましたけど、あまり関心がなかった。でも同世代のユース代表仲間には、空いた時間にいろんな社長や経営者と会って見識を深めたり、語学などの勉強をしている人間もいた。物事に対する向上心を忘れていたらダメなんだと今になると痛感しますね」

 かつての自分に悔恨の念を抱く阿部さんだけに、サッカー選手の引退後のサポートを手がけたいという思いは強い。30歳までピッチに立ち続けていられる選手はほんのわずかで、大半の選手が20代半ばまでには現役を退く。そこでいきなりプロ選手やJリーガーのプライドをかなぐり捨て、金銭感覚もガラリと変えて別の職に就くのは非常につらいことだ。ただ、現実を受け入れる準備を始めるのは早ければ早いほどいい。そう強く思った彼だからこそ、後輩たちを手助けできることは少なくないはずだ。
 今後の阿部さんがどのように人生を描いていくのか。天国にいる松田直樹さんもその動向を見守っているだろう。

取材・文/元川悦子
長野県松本深志高等学校、千葉大学法経学部卒業後、日本海事新聞を経て1994年からフリー・ライターとなる。日本代表に関しては特に精力的な取材を行っており、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは1994年アメリカ大会から2014年ブラジル大会まで6大会連続で現地へ赴いている。著作は『U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日』(小学館)、『蹴音』(主婦の友)『僕らがサッカーボーイズだった頃2 プロサッカー選手のジュニア時代」(カンゼン)『勝利の街に響け凱歌 松本山雅という奇跡のクラブ』(汐文社)ほか多数。

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