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2018.12.04

川口能活と楢崎正剛、日本のゴールを守り続けた2人の物語

「楢崎正剛がいなければ代表でプレーできなかった」。
好敵手との最高の笑顔で現役生活を終えた日本最大のスターGK

 11.9度という真冬の冷え込みとなった12月2日。2018年J3最終節・SC相模原対鹿児島ユナイテッド戦の行われた相模原ギオンギスタジアムには、1万2612人という史上最多の大観衆が押し寄せ、寒さを払拭するほどの凄まじい熱気に包まれた。

 彼らのお目当てはこの日現役ラストとなる炎の守護神・川口能活。日本代表として98年フランスから2010年南アフリカまで4度のワールドカップに出場し、国内はJ1からJ3、海外もイングランドとデンマークで25年間プレーした男の雄姿を目に焼き付けようと人々は目を凝らした。

「約3カ月ぶりの試合で正直、不安の方が大きかった」と本人も本音を吐露したが、ここ一番の勝負強さは本物だった。前半からビッグセーブを連発し、ゴールを死守する。闘志を押し出す43歳のGKを味方も援護射撃し、助っ人FWジョン・ガブリエルが後半にPKをゲットする。この虎の子の1点を守り切った相模原は1-0で勝利。タイムアップの笛が鳴り響いた瞬間、川口は目を真っ赤にして涙ながらに歓喜を爆発させた。

「能活は何かの節目や大事な試合でなぜか自分の持ってる以上の力を出す。集中力とか準備とかホントにすごいなと思いましたね」

 しみじみとこう語るのは、サプライズで登場した楢崎正剛(名古屋)。4度のワールドカップをともに戦い、正GKの座を巡ってしのぎを削り続けてきた1つ年下のライバルだ。楢崎は「能活とは特別な絆のようなものがある」と語ったことがあるが、川口の方も「彼がいなかったら僕は日本代表でプレーできなかった」と言い切る。2人が正々堂々とポジション争いをしてきたからこそ、日本人GKのレベルが上がり、代表もワールドカップ6回連続出場を果たせた。その事実を我々は再認識しておくべきだろう。

川口能活と楢崎正剛、お互いに切磋琢磨した二人の関係とは?

 清水商業高校(現清水桜ケ丘高校)から94年に横浜マリノス(現F・マリノス)入りした川口と、奈良育英から95年に横浜フリューゲルス(現F・マリノス)に入った楢崎はつねに比較される間柄だった。東海第一中と清水商で全国制覇を経験した川口は生粋のスター守護神。身長180㎝とGKとしては小柄ながら前に出る攻撃的なスタイルで一世を風靡した。楢崎の方は高校時代までは輝かしい実績はないものの、187㎝の長身と守備範囲の広さでDF陣に安定感と安心感を与えられる存在。横浜Fでは瞬く間に出場機会を得た。96年アトランタ五輪に出場したのはご存知の通り、川口の方だが、A代表で先に頭角を現したのは楢崎。弱冠20歳で96年アジアカップ(UAE)のメンバーに選ばれ、代表GK競争で一歩リードした。

「2人の関係? あの頃はギスギスしてましたよ。あんまり喋らんかったし、ライバル意識もあったと思いますね」と楢崎は述懐したが、確かに川口と比較されることを極端に嫌がっていた。当時「川口選手との違いは?」と質問したところ「背が高いこと」と嫌そうに答えたのが1つの象徴だ。そういう意識は川口側にもあった。「能活は感情を表に出すタイプ」と清水商の先輩でもある相模原の西ヶ谷隆之監督も言うように、喜怒哀楽を日常的に表現していたから、楢崎とは練習でも試合でもバチバチしたものを感じさせた。その空気感を如実に感じたのが、彼らを追いかけた川島永嗣(ストラスブール)。「能活さんとナラさんの競争は本当にレベルが高かった」と神妙な面持ちで語っていたほどだ。

 2人の争いは一進一退が続いた。97年に入って川口が代表レギュラーをつかみ、98年フランス大会に出場した。が、フィリップ・トルシエ監督が就任してからは楢崎の評価が急浮上する。2000年9月のシドニー五輪のオーバーエージ枠に抜擢したのが信頼の表れだ。が、その楢崎が五輪本大会で負傷したことで、直後の2000年アジアカップ(レバノン)を欠場。そこで川口が大活躍し、アジア制覇の原動力となる。この時点では、2002年日韓ワールドカップの正守護神の座をどちらがつかむのか全く分からなかった。

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