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2017.12.17

聞き上手で任せ上手!幕末の名君・毛利敬親に学ぶ部下のマネジメント術

聞き上手で任せ上手!幕末の名君「毛利敬親」に学ぶ理想の上司
※写真は毛利敬親とは関係ありません。

 どちらかというと部下(家臣)たちの方が派手に活躍していて本人はイマイチ影が薄いけれど、“理想の上司”と言われることの多い歴史上の人物といえば……そう、長州藩第13代藩主・毛利敬親(たかちか)だ。家臣の提案に対して何でも「そうせい(そうしなさい)」と答えていたため、“そうせい候”というあだ名で呼ばれていた。

 桂小五郎、吉田松陰、高杉晋作、伊藤博文、大村益次郎など、幕末から明治にかけて華々しく活躍した長州藩(山口県)出身の志士・政治家を知らない人はいないだろう。若くて優秀な人材が身分を問わずのびのびと自由に活躍できたのは、藩主の敬親が“聞き上手で、任せ上手”だったからだといわれている。

 現在のビジネスパーソンが、敬親の姿勢から学べることは多いのではないだろうか?

 そこで今回は、長州藩の藩政史を研究されている毛利博物館館長の田中誠二先生に毛利敬親の人物像とリーダーシップについてお話を伺った。

■嫡流でない引け目も人格形成に影響?敬親の調和を重んじる性格をつくった生い立ち

「敬親の生い立ちについては、まずその父親である第11代藩主・毛利斉元(なりもと)の説明から始めたいと思います。この斉元という人は、そもそも毛利家の嫡流(直系の血筋)ではありませんでした。

 第10代藩主毛利斉熙(なりひろ)は、自分の息子である毛利斉広(なりとう)に跡を継がせたいと思っていたのですが、斉広が幼すぎたため、仕方なく“中継ぎの藩主”として嫡流でない斉元を立てて隠居します。そして、隠居してからも藩主である斉元にあれこれと口出しをしてくるのです。これを“大御所政治”と言います。

 ちなみに、斉熙の時代は将軍・徳川家斉の治世。江戸では化政文化が花開いた時期です。斉熙は、将軍家の娘を斉広の妻として迎えて将軍家との密接な関係を築くなど、藩の勢力を強めるために尽力しました。当時としては典型的な藩主像ですね。たしかに、この甲斐あって長州藩の地位は向上したのですが、豪勢にやっていたので今度は藩民からの不満が噴出しました。

 そのため、次の代の斉元は先代の口出しだけでなく、藩民からの反発(天保の一揆など)への対応にも苦労します。さらに、自分は嫡流ではないという引け目みたいなものもあったようです。その時の父親の苦労を、敬親も見ていたのではないでしょうか。このような生い立ちが、敬親の人格形成に大なり小なり影響を及ぼしたのかもしれません」

■19歳の若さで突然藩主に! 組織内の調和に心を砕く

聞き上手で任せ上手!幕末の名君「毛利敬親」に学ぶ理想の上司

田中先生によると、長州藩の特徴は、“農政・民政”と“金穀(きんこく)の取締り”に秀でていること。関ケ原の戦いの後、長州藩の領地は4分の1にまで縮小したが、家臣たちは皆ゾロゾロついてきたので削減できなかったという。家臣が多すぎる状態は藩の財政を圧迫し、税負担の重い藩となった。

「父・斉元は、天保の一揆の翌年、“天保3年仕組み”という財政政策を5年間にわたって実施します。

斉熙の時代はけっこう豪勢にやっていて、当時“上々様方”と呼ばれていた藩の系類(藩主の親戚等)への配当も多かったのですが、それを半分にまで削減。そして、インフレを引き起こし一揆の一因となっていた“藩札の乱発”もやめます。さらに、藩の借金の利子下げ・年延べを行うなどの債務整理も行い、財政を立て直しました。

しかし、斉熙・斉元・斉広と、敬親の前3代の藩主が相次いで亡くなったため、敬親は若干19歳にして突然藩主の座につくことになります。「え、俺?」という感じだったでしょう(笑)。

幕末は、毛利家を存続させつつ、藩民の統治もうまくバランスをとってやっていかなければならない難しい時期でした。そんな時に、突然敬親は藩主になったのです。

敬親が藩主になった後は、斉熙の妻が政治に口出ししてきて、村田清風や益田などといった父親の代からの有能な家臣をクビにしようとしたりしましたが、そのような内部のもめ事もなんとか調整。父の意志を引き継ぎ、財政政策に本腰を入れることにします」

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