
■連載/【社長の横顔】フジ医療器代表取締役社長・木原定男さん
マッサージチェアに搭載されているエアー機構は、彼が作ったものだという。フジ医療器・木原定男社長。昭和43年に高卒で同社へ入社し、営業成績ダントツトップ、彼のサラリーマン人生は、マッサージチェアの歴史そのものと言っていい。そんな木原氏にビジネスヒントを聞くと、長い経験に裏打ちされた言葉がポンポンと飛び出してきた。例えば「お茶が出てくる会社へは営業に行くな――」
■『気持ちよかった。持って帰って』と言われることはほとんどなかった
木原氏の父は、和歌山県を地盤に、縫製加工の企業を経営していた。広い工場にミシンが並び、若い女性が手作業で、県内の高校の制服を縫っていた。子どもの頃、木原は工場を遊び場にしており、お姉さんたちから可愛がられていたという。ところが木原が高校生になった頃、父の会社は跡形も残っていなかった。
「潰れちゃったんです(笑)。大学に行くお金はおろか小遣いもない。私は『自立しなきゃ!』とばかり考えていました」
彼は「はやく就職したい」と考えるに留まるほど、のんびりした男ではなかった。時代は高度経済成長が始まったばかりの頃。ようやく「ファッション」という概念が生まれてきて、ズボンもパンタロンや現在のスキニーパンツなど、様々なスタイルの商品が売られ始めた。
「これに眼を付け、級友にオーダーメイドのズボンを売ったんです。ここで私が学んだのは『売る仕組みと仕掛けがあれば、商品は売れる』ということでした」
当時、オーダーメイドのズボンは市価5000円程度だった。まずは仕組みだ。生地を仕入れる原価が1000円程度、職人にはズボン1本あたり1000円で仕事を依頼できる。これを3000円で売れば、買う側は「安っ!」と思い、手元に1000円残る。初任給が1万5000円で、うどん一杯20円の時代だけに、十分な利益だった。木原氏は「小学生程度の算数ができれば、商売の仕組みはつくれるんです」と笑う。
「次は『仕掛け』。最初は自分が営業して友達に売っていましたが、商品のモノがよかったから、買ってくれた友達を営業に使えた。『ズボン1本売ったら営業代を300円払う』と話すと、みんな我先に売り始めました。先日、同窓会に行くと、みんなから『オマエにはようけズボン買わされた』とからかわれましたよ(笑)」
家業が潰れる、そんな人生最悪の出来事が、彼にとっては幸いとなった。彼はこの学びを活かし、フジ医療器入社後、長く営業成績ダントツ1位の座を獲得し続けたのだ。
「扱う商品は変わっても、売る仕組みと仕掛けがあれば、商品は売れる。例えば、マッサージチェアが家庭にも置かれるようになった昭和50年代頃の話です」
当時は家電量販店がなく、木原ら営業は、会社から月5000枚程度チラシをもらって撒いていた。チラシにははがきがついていて、興味を持った顧客がはがきを返送するとカタログを送る。でも、こんなもので売れるわけがありませんよ。カタログがきたら『やっぱり高いな』とか『デカいな』と思われてオシマイです」
木原はまず、身体を使って働く人が多く、かつ景気がよい地域を調べた。例えば「岐阜の多治見は陶器の工場があって、皆、寝ずに働くほど忙しい」などと調べてからチラシを撒いた。当然、レスポンス率がよく、カタログの請求が相次いだ。
「そしたら、カタログなんか送らずいきなり商品を持って行くんです。『たまたま近くに来まして、たまたま商品を積んでるんです。たまたま時間もあるから試してください』と訪ねます。マッサージチェアを運び込み、『さあ、使って下さい』と言うと『気持ちよかった。じゃあ持って帰って』と言われることはほとんどありませんでした。皆、人情があるんですよ。わざわざ重い物持ってきてくれたんだから、また運んで帰らせるのは悪いなぁ、と」