元日本代表・羽生直剛のセカンドキャリア構築とは?
偉大な恩師、イビチャ・オシム監督から背中を押され、起業したという羽生直剛(本人提供)
元日本代表の小野伸二(札幌)や太田宏介(町田)が今季限りでの現役引退を発表したが、一時代を築いたトップアスリートがピッチを去るのは避けられないこと。「アスリートは現役時代よりも第2の人生の方が長い」とはよく言われるが、セカンドキャリアをどう築き上げるかは誰しもが直面する問題だ。
知名度のある選手は解説者やタレント業に進出できるだろうし、クラブから乞われて指導者に転身する例も少なくないが、近年は起業を選ぶ者も少なくない。
「オシムチルドレン」の象徴的な1人である羽生直剛(43)はコロナ禍に突入しつつあった2020年2月に「AMBITION(アンビション)22」を設立し、現在は企業活動のサポート、元アスリートのキャリア支援、スポーツクラブ支援、自治体連携…など、幅広いビジネスを展開しているのだ。
筑波大学からジェフへ。オシム監督との出会いで急成長した現役時代
羽生の足跡を改めて紹介すると、79年生まれの彼は千葉県千葉市出身。八千代高校から筑波大学に進み、文武両道を地で行った。大学の卒業論文は「ルイ・コスタ(元ポルトガル代表)と森島寛晃(元日本代表、現セレッソ大阪社長)と自分のプレーの違い」。神出鬼没な動きと豊富な運動量がウリだった森島に通じるアタッカーだったのは確かだ。
その才能を買われ、2002年にジェフユナイテッド市原(現千葉)へ。プロ2年目に出会ったのが、偉大な名将、イビチャ・オシム監督だった。
「オシムさんは1人1人をメチャクチャ尊重してくれる人。『強みを磨く努力をしなさい』『お前ならできる』と常日頃から背中を押してくれた。それぞれの強みを掛け合わせて勝てるようなチームを作ろうとしていました。それでジェフはJ1優勝争いができるようになり、2005年にはヤマザキナビスコカップ(現ルヴァンカップ)のタイトルを取れた。当時はチーム全員が『結果が出なかったら自分のせい』と責任感を持ちながら戦っていたし、個の強さを発揮しようとしていました。そういった部分は一般社会にも通じる。僕はオシムさんに社会人の基本を教えてもらったのかなと感じています」と羽生は貴重な経験を改めて口にする。
オシム監督とは日本代表でも共闘。2007年アジアカップ(東南アジア4カ国共催)にも参戦し、日の丸の重みを体感する機会にも恵まれた。彼の世代は小野伸二、稲本潤一(南葛SC)、遠藤保仁(磐田)、小笠原満男(鹿島アカデミーアドバイザー)といった傑出したタレントがひしめく「黄金世代」だったが、羽生のような遅咲きの人材が輝けたのも偉大な指揮官との出会いが大きかったのだ。