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カタールW杯の主役は三笘?それとも久保?サッカー日本代表のニューヒーロー列伝

2022.06.02

次なるニューヒーローになるのは久保建英か?(筆者撮影)

 2022年カタールワールドカップ(W杯)まで半年を切った。明日2日のパラグアイ戦(札幌)から始まる6月日本代表4連戦は、キャプテン・吉田麻也(サンプドリア)が「最後のアピールの場」と強調するほど、非常に重要な強化の機会となる。6日には世界ランキング1位のブラジル戦(東京・新国立)も控えているだけに、誰が強烈なインパクトを残すのかが大いに注目される。

 ドイツ、スペインという世界的強豪と同組に入ったW杯でサプライズを起こそうと思うなら、ニューヒーローの出現は必要不可欠だ。そこで日本代表の過去のニューヒーローの系譜を辿りつつ、今回の候補者を挙げてみたい。

2005年3月のドイツ合宿時の中田英寿(筆者撮影)

中田英寿(98年・2002年・2006年W杯出場。現実業家)

 98年フランス大会からスタートした日本のW杯の歴史。その扉を切り開いたのが、中田英寿だった。まだ20歳だった97年5月の日韓戦(東京・国立)で衝撃的なデビューを飾った彼は、当時の加茂周監督から瞬く間に絶対的司令塔と位置付けられ、97年9~11月のフランスW杯アジア最終予選でチームをけん引する。

 途中で指揮官が更迭され、岡田武史監督(JFA副会長)が後を引き継ぐ混乱と重圧の中、中田は帯状疱疹に見舞われながらも、日本を「ジョホールバルの歓喜」へと導いた。岡野雅行(鳥取GM)の決勝弾をアシストしたシーンは多くの人々の脳裏に焼き付いているはずだ。

 98年フランス大会直後には当時イタリア・セリエAのペルージャへ移籍。ユベントス戦での2ゴールで世界中に衝撃を与えた。そして2000年には強豪・ローマへ赴き、20-21シーズンのスクデット獲得を経験する。まだ海外組がほとんどいない日本サッカー界にとって、日本人選手がセリエA王者になるというのは偉業。「スター嫌い」で知られた日本代表のトルシエ監督も彼だけは外すことなく、重用。2002年日韓W杯でもチュニジア戦(大阪)でゴールという結果を残してみせた。

 現役最後となった2006年ドイツW杯は3戦フル出場。ブラジル戦(ドルトムント)で惨敗を喫した後、ピッチに倒れ込んだ姿は16年が経過した今も多くの人々の記憶に残っている。

ピッチに倒れ込んだ現役最後の中田英寿(筆者撮影)

稲本潤一(2002・2006・2010年W杯出場。南葛SC)

 ”元祖ワンダーボーイ”と言えばこの男だろう。自国開催代表だった2002年日韓W杯のベルギー戦(埼玉)、ロシア戦(横浜)で2戦連発の離れ業をやってのけ、世界にその名を知らしめたのが早いもので20年前の出来事だ。

 少年のような童顔から「ビッグベイビー」とトルシエ監督から名付けられた彼が、その印象とは正反対の屈強なフィジカルと球際の強さ、ダイナミックさを持ち合わせた選手だった。非凡な潜在能力を名将・ベンゲル監督に認められ、2001年夏にはアーセナルへ移籍。ビエラやピレスなど世界的名選手が揃う最強軍団では試合出場は叶わなかったが、そこで経験したものを全て日韓の大舞台にぶつけ、日本の史上初の16強入りに貢献した。

2001年にガンバ大阪からアーセナルへ移籍するセレモニーに参加した稲本(筆者撮影)

 その後、イングランドで活躍したが、2004年のイングランド戦(マンチェスター)での大ケガがなければ、アーセナルか返り咲き、あるいは別のビッグクラブ移籍もあったかもしれない。それだけのスケール感を持った逸材だったことを改めて再認識すべきだろう。

 そして現在はJリーグから数えて5部に相当する関東1部の南葛SCでプレーしている。すでに42歳という大ベテランだが「やっぱりプレーするのが好き。カテゴリー関係なしに仲間とボールを蹴れるのはすごく幸せなこと」と人工芝の夜間練習にも文句1つ言わずに取り組んでいる。

 妻はモデルの田中美保。今では平愛梨と結婚した長友佑都(FC東京)、真野恵里菜と結婚した柴崎岳(レガネス)などがいるが、美人タレントをパートナーにできるあたりも稲本の底力だ。

玉田圭司(2006・2010年W杯出場。現長崎アンバサダー&アカデミーロールモデルコーチ)

 前述した中田英寿の現役ラストマッチとなった2006年ドイツW杯・ブラジル戦で、得意の左45度から先制弾を叩き出したのが、玉田圭司だ。

「「試合が終わって、小野伸二(札幌)さんに『お前だけ通用してた』と言われた。でもボロ負けでしたね」と苦笑するが、あのゴールは紛れもなくワールドクラス。王国を焦らせるには十分すぎるインパクトがあった。

 玉田が代表入りしたのは、24歳になったばかりの2004年3月。当時は中村俊輔(横浜FC)、小野のように20歳前後で代表入りする選手が多かったため「遅咲き」の印象が強かった。が、甘いマスクとスピードあるドリブル突破は魅力十分。女性人気も急上昇した。

若かりし日のアイドル風風貌の玉田圭司(中央=筆者撮影)

 その彼が代表での地位を確実にしたのが、2004年アジアカップ(中国)。反日ムードが吹き荒れる中の大会で、彼は延長までもつれにもつれた準決勝・バーレーン戦(済南)で2ゴールをゲット。4-3の勝利の原動力となる。さらに決勝・中国戦(北京)でもダメ押しとなる3点目を奪い、ジーコ監督(鹿島テクニカルにダイレクター)からの信頼をガッチリと勝ち取る。それがブラジル戦での歴史的ゴールにつながっていくのだ。

 玉田はその後、岡田監督が率いた2008~2010年の日本代表にも名を連ね、最終予選の頃は「お前がFW陣を引っ張ってほしい」と直々に言われるなど、大きな期待を寄せられた。が、岡崎慎司(カルタヘナ)の台頭でポジションを奪われる格好になり、2度目のW杯は控え。最後のパラグアイ戦(プレトリア)には出場したが、ゴールが奪えず、ベスト8の壁を超えられなかった。それでも国際Aマッチ72試合出場16ゴールという数字は立派だ。

内田篤人(2010・2014年W杯出場、JFAロールモデルコーチ)

 引退した今もテレビ朝日の報道ステーションでスポーツキャスターを務め、DAZNの冠番組を持つなど、八面六臂の活躍を見せる内田。彼も日本代表入りしたのは19歳と若かった。

 デビューしたのは2008年1月のチリ戦(東京・国立)。2007年11月に病に倒れたイビチャ・オシム監督の後を引き継いだ岡田監督の2度目のチャレンジの初陣だった。それまで右サイドバックは加地亮(解説者)の定位置だったが、「ボールの持ち方に特別なセンスを感じる」と岡田監督に抜擢された若きイケメンは冷静沈着なパフォーマンスを披露。そのまま一気にレギュラーに駆け上がった。「内田君の才能を見て、もう自分は必要ないと思った」と加地に代表引退を決断させるほど、当時の彼のインパクトは大きかった。

 2010年南アフリカW杯予選はコンスタントに出ていたが、2009年に原因不明の発熱に見舞われるなどコンディションが悪化。本大会に向けて日本が超守備的な戦術にシフトしたこともあり、本番は駒野友一(今治)にポジションを奪われ、まさかの出番なしに終わる。本人も「何が足りなかったのかな…」とボヤいたのが印象的だった。

2012年2月、シャルケの練習場で記念撮影に収まった内田篤人(筆者撮影)

 だが、直後に移籍したドイツ・ブンデスリーガの名門・シャルケで瞬く間に定位置をつかむと、1年目にUEFAチャンピオンズリーグベスト4に進出。熱狂的サポーターから「ウシダ」の愛称で親しまれ、絶大な人気を得るようになる。日本の女性人気も沸騰。2012~13年頃には真冬のシャルケの練習場にミニスカ女子がズラッと並ぶような珍現象も起きた。

 本人はそういう外野に左右されず、ザッケローニ監督体制の日本代表で2度目のW杯に向かっていたが、2014年2月にひざを負傷。出場に暗雲が垂れ込める。それでもムリにムリを重ねてプレーできる状態に戻し、ブラジルで奮闘。3戦未勝利と惨敗する中で、内田だけは高いレベルのパフォーマンスを披露し続け、欧州トップの実力と存在感を示した。

 結果的にはその時の過度な負荷が選手キャリアを短くすることになったが、本人は太く短く走り抜いた現役生活を後悔してはいないはず。その生きざまも含めてスーパーヒーローに相応しい。

本田圭佑(2010・2014・2018年W杯出場=カンボジア代表GM、実業家)

「W杯男」という意味では、この男をおいて他にはいない。3度の世界舞台で4ゴールを奪った本田圭佑の凄さは誰もが認めるところだ。

 彼が初めて代表に呼ばれたのはオシム監督時代の2006年11月。オシム時代は練習に参加しただけで試合出場はなく、デビューは2008年6月のバーレーン戦(埼玉)だった。当時は中村俊輔や遠藤保仁(磐田)、中村憲剛(川崎FRO)ら中盤のタレントがひしめき、なかなかコンスタントに出番を得られなかった。が、09-10シーズンのオランダ1部で開幕からゴールラッシュを見せると、岡田監督の評価が急上昇。2009年9月のオランダ戦(エンスヘーデ)で途中出場した際には、名手・中村俊輔に「FKを蹴らしてくれ」と猛アピールしてみせるなど、日本人離れしたメンタリティでのし上がっていった。

2005年にプロ入りした頃の本田圭佑(右=筆者撮影)

 その本田がブレイクしたのは、ご存じの通り、2010年南アW杯初戦・カメルーン戦(ブルームフォンテーヌ)の決勝弾。「あのゴールで「人生が変わった」と本人も言うほどの価値ある一撃で日本のムードは一変した。2戦目のデンマーク戦(ルステンブルク)でもFK弾を決め、16強進出の原動力となり、同時に代表エースの座をつかんだ。

 本田が代表攻撃陣をけん引する時代は2016年まで継続。2014年ブラジル大会では惨敗の中でも初戦・コートジボワール戦(レシフェ)の先制弾でインパクトを残した。が、ハリルホジッチ監督時代の後半はベンチスタートが多くなり、ロシアW杯は当落線上と位置づけられたが、大会直前の西野朗監督への交代によって状況が一変。3度目のW杯ではジョーカーとして大きな仕事を果たした。最後のベルギー戦(ロストフ)で直接FKを決めていたら…。そこだけが本当に悔やまれる。

2018年ロシアW杯直前の本田圭佑(右=筆者撮影)

三笘薫(サンジロワーズ)

 2020年に加入した川崎フロンターレで”ヌルヌルドリブル”と称される独特のドリブル突破で一世を風靡し、2021年夏に欧州挑戦に踏み切った三笘薫。昨夏の東京五輪はケガで出遅れ、中心的な役割は果たせなかったが、ベルギー1部・サンジロワーズで頭角を現すにつれて、森保一監督の評価も上昇した。

 日本代表デビューは2021年11月のオマーン戦(マスカット)。0-0の状況で後半から登場した彼は得意のドリブルで相手をキリキリ舞いし、伊東純也(ゲンク)の決勝弾をアシスト。いきなり鮮烈な印象を残した。

 そしてカタール切符のかかった今年3月のオーストラリア戦(シドニー)でも終盤に登場し、いきなり先制点を奪うのみならず、2点目をゲット。彼の2発で7大会連続W杯出場が決まる形となった。

 凄まじい活躍は印象的で、多くの代表レジェンドも「カタールのキーマンは三笘」と断言するほど注目度が高まっている。確かにあのドリブルの切れ味はドイツやスペインのDF陣も手を焼くだろう。筑波大学出身のインテリという部分を含めて、彼にはスターの予感が色濃く感じられる。

5月30日の代表合宿初日の三笘薫(筆者撮影)

久保建英(マジョルカ)

 少年時代を名門・バルセロナで過ごし、18歳になるや否や、レアル・マドリードへ移籍するという離れ業をやってのけた久保。彼は10代の頃から「近未来の日本サッカー界をリードする逸材)と言われてきた。左足のキック、ドリブル、パスなど技術が圧倒的に高く、日本代表レジェンドの1人である清武弘嗣(C大阪)も「あの技術とスピードはすごい。ああいう選手に抜かれるなら辞めてもいい」と絶賛していたほどだ。

 ただ、代表では2019年6月のエルサルバドル戦(宮城)のデビューから丸3年が経過し、すでに20試合に出場しているが、いまだゴールはなし。定位置も獲得できたとは言い切れない。この成長曲線は中田英寿に比べるとやや物足りない。ここからの半年で先人たちをしのぐ存在感を示せるのか。スター性抜群の若者だけに、この正念場を乗り越えてもらいたい。

取材・文/元川悦子
長野県松本深志高等学校、千葉大学法経学部卒業後、日本海事新聞を経て1994年からフリー・ライターとなる。日本代表に関しては特に精力的な取材を行っており、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは1994年アメリカ大会から2014年ブラジル大会まで6大会連続で現地へ赴いている。著作は『U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日』(小学館)、『蹴音』(主婦の友)『僕らがサッカーボーイズだった頃2 プロサッカー選手のジュニア時代」(カンゼン)『勝利の街に響け凱歌 松本山雅という奇跡のクラブ』(汐文社)ほか多数。

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