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5か国9クラブでの経験を経て40歳でフットサルに参戦した松井大輔に学ぶ「人生を楽しむ矜持」

2021.10.17

108日のフットサルデビュー戦後に笑顔を見せる松井大輔(筆者撮影)

南アW16強戦士がフットサルに転身

2022年カタールワールドカップ(W杯)アジア最終予選で日本代表が苦しむ傍らで、W杯参戦経験のある代表レジェンドの転身が話題になった。2010年南アフリカW杯の初戦・カメルーン戦(ルステンブルク)で本田圭佑(スドゥバ)の決勝弾をアシストし、ベスト16入りの原動力になった松井大輔(YSCC横浜)である。

昨年12月に3シーズン過ごした横浜FCからベトナム1部・サイゴンFCへ移籍したものの、現地での新型コロナウイルス感染急拡大でリーグが休止。長期間のロックダウンを強いられた末、9月にフットサル参戦を決意した。そして10月8日、Fリーグ1部・湘南ベルマーレ戦でデビューを飾ったのだ。

松井の出場時間は前半・後半ともに1分半程度。20分ハーフの合計3分程度しか出ていないが、フットサルはバスケットコートサイズで狭いため、その分、サッカーよりもシャトルランの回数が多く、強度が高い。

「短いスプリントが多くなるんで、ひざが笑ってくるというか、ふくらはぎがプルプルしましたね」と本人は茶目っ気たっぷりに笑ったが、3カ月近くベトナムで自宅軟禁状態を強いられた”40歳のおっさんにとっては、相当にキツく感じて当然だろう。

ベトナムでは5月までは公式戦があったが、松井が試合に出ていたのは4月まで。6月以降は厳しいロックダウンの中、自宅マンションの敷地外に出られなくなり、屋上で筋トレしたり、非常階段をダッシュするくらいしか体を動かせなかったというから、アスリートの体を取り戻すのは至難の業。それに加えて年齢的な要素も重なり、新たなチャレンジは傍目から見るほど簡単ではないようだ。

「それにサッカーと違って交代自由なんで、監督に呼ばれたらすぐに出場しますよね。アップしてる時に交代するんで、テンションの上げ方がすごく難しく感じますし、基本的な動きや戦術も分かんない。フットサルを知るところからのスタートなんで大変です」と彼自身も苦笑する。


早朝練習後の一コマ(筆者撮影)

こうした難しさがある中、なぜ彼は四十路にして新たな世界へ踏み出したのか。本人の回答は「率直に面白いと思ったから」という至ってシンプルなものだった。

日本に戻ってJ2やJ3のチームでプレーする選択肢もあったが、すでに知り尽くしているリーグに戻っても胸は高鳴らない。南アの盟友・駒野友一(FC今治)のように、カテゴリーを落として、高度な経験を伝える役割を担うという道もあっただろうが、同世代の仲間がすでにやっていることを踏襲するのもピンとこなかった。

松井大輔という選手はどこまでも自分がワクワクすることを追い求めるチャレンジャー。その矜持に合うのが、フットサルという未知なる領域だったのだ。

城彰二(解説者)、遠藤保仁(磐田)らを輩出した高校サッカーの名門・鹿児島実業高校を卒業し、2000年に京都パープルサンガでプロサッカー選手のキャリアをスタートさせてからというもの、彼は自らの進むべき道を「直感」で決めてきた。

面白いものに直感的に突き進む

2004年アテネ五輪直後にオファーを受けたフランス2部・ルマンにしても「その時、自分がプレーしていたのはJ2。同じ2部ならフランスの方がいい」と考え、迷うことなく渡仏。「10番の血を引く絶滅品種」という独特の言い回しで当時の指揮官に才能を評価され、1部昇格に貢献。「ルマンの太陽」と賞賛されるなど、フランスで一気に存在を知らしめた。

その後、2008年夏に赴いたサンテティエンヌではクラブ内権力抗争に巻き込まれたこともあって干されたが、翌2009年に移籍した当時フランス1部のグルノーブルでは活躍。長年の悲願だったW杯を引き寄せ、日本代表の中心的存在としてテクニックと強靭なメンタルを見せつけた。

          20051月。ルマン移籍1年目の若かりし日の松井(筆者撮影)

これで世界的評価もさらに向上。ポルトガル1部の名門・スポルティング・リスボンに行く話が本決まりになりつつあった。が、それがグルノーブル側の過度な金銭要求によって頓挫。結局、ロシア1部のトム・トムスクへ行くことになってしまう。その極東の地は南アでまばゆい輝きを放った彼にとって色あせて見えたはず。

「南アの後、UEFAチャンピオンズリーグ(CL)や欧州リーグ(EL)に出られるような格上のクラブに行けると思ったけど、叶わなくて、燃え尽き症候群のような状態に陥った」と松井自身も失望感を拭えなかった。

だからと言って、守りには入らなかった。そこからもフランスのディジョンを経て、ブルガリアのスラビア・ソフィア、ポーランドのレヒア・グダンスクを回り、欧州5大リーグから離れたものの、異国の地で学びを得た。「僕は人と同じことをやっててもしょうがないって考えが強かった。いろんな国に行って人や物事に触れたことで発見はあったし、よかったと思ってます」と彼は満足そうに笑う。

36歳で欧州再挑戦した失敗の経験

2014年1月にいったんジュビロ磐田でJリーグ復帰を果たしたものの、未知なる土地を追い求める思いはとどまることを知らなかった。そして2017年8月、またも欧州へ目を向ける。行き先はポーランド2部のオードラ・オポーレという小クラブだった。

その時、すでに36歳。サッカー選手としては「晩年」と言っていい年齢に達していた。磐田でも出場機会が減り、キャリア的にもやや下降線という印象も拭えなかった。が、彼は「ルマンも2部からのスタートで、磐田に帰ってきたときもJ2。今回もポーランド2部ということで、初心に戻れるかなと。今はワクワク感しかない」と目を輝かせていた。

妻で女優の加藤ローサさんが2人の息子の子育てを担ってくれたからこそ、実現した海外再挑戦ということもあり、「家族のためにも頑張ろう」と奮起して異国へ赴いた。

けれども、オポーレでは「最初の入りが肝心」という海外移籍の鉄則を忘れていたのか、デビュー戦で失点に絡むミスを犯す。これを機に、監督から「球際で戦ってない」「走ってない」と繰り返し言われるようになり、活躍らしい活躍ができないまま5カ月でクラブを去ることになった。

「後から聞いた話ですが、オポーレはクラブは唯一の外国人選手である僕にピッチ外での期待も寄せていたようなんです。老朽化したスタジアムを立て直すため、オポーレ市に対して支援を働きかけていた。その一貫として、僕のデビュー戦に市の重鎮を数多く招待し、大々的なアピールをしようと目論んでいたといいます。それなのに、僕のミスから失点して負けるという最悪の結末になった。面目丸つぶれの監督も面白いはずがなく、僕は干され、あっという間に36歳の海外挑戦が終わってしまいました」と松井は事情を説明する。


2017
11月。オポーレ時代の松井(筆者撮影)

「年齢的にムリだろう」という評価を覆す生き方

海外ではこういった失敗例はつきもの。ただ、年齢的にもこれ以上の国外移籍はムリだろうと誰もが思った。が、本人の中にはくすぶり続けるものがあった。39歳だった昨年末にベトナムからオファーを受けると二つ返事でOK。コロナ禍で家族も心配しただろうが、本人は「カズ(三浦知良=横浜FC)さんは『グランドで死ねれば万々歳』と言ってますけど、自分も眠る場所を探しているのかもしれない。僕も持ってる能力の7080%しか力を出せなくなってるけど、ちょっとでも輝ける場所があるならピッチに立ちたい」と完全燃焼できる場所を探していた。それに相応しいと、初めての東南アジア行きに踏み切った。

だが、その挑戦もコロナ禍の影響で想定外の結果になった。彼自身としてはできることなら契約期間の1年を全うし、ベトナムリーグで活躍して戻ってきたかったが、ロックダウンで再開見通しが立たず、時間ばかり過ぎていく状態にはさすがに焦燥感を覚えた。

ベトナム行きの前に考えていた「完全燃焼できる場所」も見つけられなかった。長い長い隔離生活の間にそれを探し続け、出た答えは「サッカーからの転身」。フットサルに足を踏み入れることになれば、現役引退というのは遠のく。ただ、プレー時間を柔軟に変化させられるこの競技なら、年齢を重ねても続けられる。そんな魅力も感じつつ、今の松井は早朝6~8時の練習を連日こなし、全貌をつかもうと必死にボールを蹴り続けている。

人間、何歳からでもリスタートできる!

彼の生きざまから言えるのは、「人間、何度失敗しても、何歳からでもリスタートを切れる」ということ。もちろんプロサッカー選手は普通のサラリーマンよりも収入が多く、生活面で多少なりとも余裕があるのは確かだが、年を取り、体力が落ち、プレーの場がなくなればメンタル的にも落ち込んでくるのは一緒だ。その現実を受け入れ、「今できることは何か」を必死に探し、少しでも前に進もうという姿勢を示し続けているからこそ、松井は多くの人に愛される。苦境を深刻にとらえるのではなく、明るくアッケラカンと楽しくやってしまうからスゴイだ。

海外で数々の修羅場を経験し、「どんな過酷な環境にいても人生を楽しむ術」を身に着けた人間はやはり強い。そのスタンスを我々はぜひとも参考にしたいものである。

取材・文/元川悦子

長野県松本深志高等学校、千葉大学法経学部卒業後、日本海事新聞を経て1994年からフリー・ライターとなる。日本代表に関しては特に精力的な取材を行っており、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは1994年アメリカ大会から2014年ブラジル大会まで6大会連続で現地へ赴いている。著作は『U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日』(小学館)、『蹴音』(主婦の友)『僕らがサッカーボーイズだった頃2 プロサッカー選手のジュニア時代」(カンゼン)『勝利の街に響け凱歌 松本山雅という奇跡のクラブ』(汐文社)ほか多数。

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