
仕事部屋にストックしてある開封していないインスタントコーヒーが残り1本になっているのを思い出した。もちろんまだしばらくは持つのだが、帰りにスーパーに寄ってまとめ買いしようか、などと歩きながら考える。
中井の商店街を歩きながら“せっかち”な自分を自覚する
快晴の空の下、さわやかな春の空気が心地よい。今日は珍しく午前中から外出し、練馬区某所での用件を終えて西武新宿線の中井駅で降りる。まだ正午を回ったばかりだ。
ここで都営大江戸線に乗り換えるつもりなのだが、駅は接続されていないのでいったん駅を出て商店街を少し歩く必要がある。なかなか珍しい乗り換えだ。新橋から「ゆりかもめ」に乗り換えたり、西日暮里から「舎人ライナー」に乗り変えたりする体験を彷彿させるが、そうしたモノレール系の路線への乗り換えではなく、中井の場合は私鉄と地下鉄なのである。
駅を出て右方向に商店街を歩き「妙正寺川」にかかる橋を渡る。商店街に並ぶ店を見ていると、仕事部屋のインスタントコーヒーのことを再び思い出す。
1本で1ヵ月ほどは持つのでそれほど急ぐこともないのだが、せっかく思いついたのだがら帰路に買って帰ろうかとも思う。それにしてもそんな些細な案件が思い浮かぶというのもなんだか我ながら“せっかち”になっているというか、自分で自分を追い立てているようなところがあるのかもしれないと気づかされる。インスタントコーヒーのことくらい、もっとのんびり構えていたところで何の問題もないのだろう。
ほんのわずかな長さの橋を渡り切りドラッグストアを通り過ぎる。
せっかちというのか、どこか短絡的になってしまっている傾向は否定できないのかもしれない。長期的な視点が持てなくなっているのである。
国民年金基金に加入しているのだが、少し前に月々の掛金の増額を提案する知らせが届けられていた。この先平均寿命まで生きるとすれば、確かに掛金を増額したほうが後々得をすることはほぼ間違いない。しかしその1万円から2万円を月に多く払う決断ができないでいる。そのお金があったらちょっと豪華な外食が月に何度かできると思うとますます踏ん切りがつかない。わずかばかりに増えた遠い将来のお金よりも今ある1万円のほうが重要なのだ。
昼時の商店街を歩く。次の用件は特にアポもなく、夕方くらいまでならいつ訪れても支障のない種類のものだ。このへんで昼食にしてもよいのだろう。
“空腹”だと目先の報酬を今すぐ欲しくなる
商店街をさらに進む。珍しい東地中海・中東料理の店が左に見える。その先にはそば屋や某牛丼チェーン店も見える。
“今の1万円”を持っているからこそこうして自由に外食できるのだがもし仮に可処分所得が月に2万円減ったらどんな生活になるのだろうか。あんまり考えたくない事柄のことだ。
1年後の1万1000円よりも“今の1万円”に価値を置く傾向を行動経済学では「時間割引」という。今すぐに1万円が貰えるのと、1年後に1万1000円を貰うのとどちらかを選べと問われたなら、多くは今すぐ1万円を貰うことを希望するだろう。
しかし昨今の低金利時代だけに、中には1年後に1万1000円を貰うという選択をする者がいても不思議ではない。つまりこの“時間割引率”は人によってかなり異なってくるのである。1年後には2万円貰えたとしても今すぐに1万円を貰いたいと思う人は時間割引率が高く「せっかち」であり、1年後に1万500円であったとしても今すぐ1万円を貰わずに1年待つ人は時間割引率が低く「忍耐強い」人物である。
また同一人物であったとしても、その時の状況や条件で時間割引率が違ってくることもあるだろう。ではどういう時に人は時間割引率が高まり「せっかち」になるのか。最新の研究では“空腹ホルモン”であるグレリンが財政的意思決定において人を「せっかち」にさせていることが報告されている。つまり“空腹”を感じている時に人は「せっかち」になっているというのである。
食欲を刺激する胃由来のホルモンであるグレリンのレベルが高いほど、より多額の遅れた金銭的報酬よりもより少額の即時の金銭的報酬を好むことが予測されることを新しい研究が発見しました。
マサチューセッツ総合病院とボストンのハーバード大学医学部の助教授である共同研究者のフランツィスカ・プレッソー博士は、この研究はいわゆる「空腹ホルモン」であるグレリンが財政的意思決定に影響を与えるという新しい証拠を示していると述べた。彼女はげっ歯類での最近の研究結果は、グレリンが衝動的な選択と行動に関与している可能性があることを示唆していると述べた。
「私たちの研究結果は、グレリンが財政的選択などの人間の報酬関連の行動や意思決定において以前に認められていたよりも幅広い役割を果たす可能性があることを示しています」とプレッソー博士は述べています。「これにより食品に依存しない人間の知覚と行動におけるその役割についての将来の研究を刺激することを願っています」
※「Endocrine Society」より引用
別名“空腹ホルモン”と呼ばれるグレリンは、栄養が欠乏した状態であることを脳に知らせ摂食行動を促し、脳の報酬系に関わっている。グレリンのレベルは食物摂取量と各人の代謝に応じて1日を通して変動している。
実験に参加した10~22歳の84人の女性のうち50人は神経性食欲不振症などの低体重の摂食障害者で、34人は健康なコントロ―ルグループであった。決められた時間を断食したすべての参加者に食事が提供されたのだが、研究チームは食事の前後に参加者のグレリンの血中濃度を測定してデータを収集した。食事の後、参加者には時間割引率を割り出すタスクが課された。タスクの1例は、今日の20ドル貰うのと、14日後に80ドル貰うのと、そのどちらを選ぶかというものなどである。
収集したデータを分析した結果、グレリンのレベルが高い健康な少女や若い女性は、多額の金銭を待つよりも、少額ではあるが即時の金銭的報酬を選択する可能性が高いことが浮き彫りになった。つまり空腹の状態では時間割引率が高まり、「せっかち」で衝動的になっているのである。
新鮮でボリュームのある刺身定食で腹を満たす
昼食を食べる店を求めて現在まさに空腹である自分もまた「せっかち」になっているのだろうか。ともかく入る店を決めて腹を満たそう。愚かな判断をしでかす前に……。
牛丼屋の手前にある鮮魚店に衝立ての看板が立っていて、ランチメニューが記されている。店の脇の奥が飲食店になっているようだ。魚を食べることに何の異論もない。入ってみよう。
ちょっとした距離の細い廊下の突き当りに格子戸の入り口がある。隠れ家的な店なのかもしれない。
店内は予想していたよりも広く、入り口の格子戸の様子からは意外なくらい内部はなかなか瀟洒な作りになっている。壁には大型の液晶テレビが掛かっていてワイドショーを映していた。カウンターもあったが先客の1人客がいて、物品なども置かれていて手狭であるようなので2人がけの席に着かせてもらった。
すでに7、8人の先客がいてやはり地元の人気店であることがわかる。ランチメニューは10種類ほどもあって、丼ものから焼魚、煮魚、アジフライなどレパートリーが豊富なのだが、ざっとみたところほとんどのお客が刺身定食を注文しているようだ。実際に店の人が出来上がった刺身定食を次々と客席に運んでいる。自分も迷わずに刺身定食を注文した。これなら空腹だからといって判断を間違えようがない。
先ほどの研究の話に戻るが、空腹だとしても「せっかち」にはならない人もいることが示されている。それは拒食症などの摂食障害を持つ人々だ。そうした人々はグレリンのレベルが上昇しても時間割引率が変わらないのである。そしてこうした人々がいるということは、空腹で「せっかち」にならない方法を将来医学的に見つけ出すことができる可能性もあるのだ。
刺身定食がやってきた。この値段でこの刺身のボリュームはお得だ。ご飯も大盛りが標準のようだ。刺身が新鮮で美味しい。
こうして腹が満たされることで確かに「せっかち」な判断は避けられそうな気がしてくる。“空腹ホルモン”であるグレリンのレベルが下がったのだろう。
何はともあれやらなければならない目先の仕事や雑事に追われる生活がずっと続いているのだが、考えてみればたまには長期的な観点に立った展望や計画も検討してみるべきなのだろう。とはいえ何をどうすればよいのか、すぐには思いつかないのだが……。
食べ応えのある刺身定食にはじゅうぶん満足だ。国民年基金の掛金を増額するのかどうか、インスタントコーヒーを今日買うのはやめておくべきかどうか、いろいろと迷うところだが、食べ終わったらひとまず大江戸線に乗って移動し、次の用件を片付けなければならないことは当面の現実だ。
さて、お会計して店を出てから少し考えてみることにしよう。答えを急がなくてもいい。少なくともしばらくの間は「せっかち」な考えは浮かんでこないだろう。
文/仲田しんじ